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石灰岩の大岩と県境

 投稿者:河本  投稿日:2018年 5月26日(土)11時31分35秒
  戸嶋さま。「大岩(石灰岩)がありますが、これは元々長野県側にあったもので、地殻変動で山梨県側に移動した」と説明版にあるということですが、なにか根拠になる文献があるのでしょうか。
 糸魚川‐静岡構造線活断層系が地表に食い違いを残すほど大きく動いた最新の年代は、おそらく西暦762年(奈良時代)です。奈良時代には長野県も山梨県もありませんが、当時の甲斐の国と信濃の国の境界はどこにあったのでしょう。
 仮に今のように釜無川の流路が国境だったとして、大岩が左岸側にあった(大岩の南東側に旧釜無川が流れていた)とします。大岩の南西側の断層が右ずれに動き、旧釜無川の出口をふさぎ、釜無川が大岩の南西側の断層沿いに新しい流路を作って大岩の西側を回り込むように流れを変えたとすれば、「大岩が信濃から甲斐へ(釜無川の流路が大岩の南東側から北西側へ)」というストーリーが成り立つかもしれません。
 しかしこれは2つの難点があります。まず大岩の南東側にわずか1250年前に釜無川が流れていた地形が見られない(赤石山地側の隆起速度(1000年に数メートル)を考えても、現河床ととそれほど変わらない高さに旧河道跡が残っているはず)。
 また諏訪~白州の糸魚川‐静岡構造線活断層系は大局的に左横ずれであることから、右ずれの大きな変位は考えにくいと思います。糸魚川‐静岡構造線活断層系による中央構造線の食い違いは茅野~岡谷の12kmですので、仏像構造線も先能~青柳あたりまで食い違っていてもおかしくないと思います。秩父帯の延長は原村の下あたりにあるかもしれませんね。八ヶ岳を取り除き、さらにおそらく存在している北部フォッサマグナの地層を取り除かないと見えないですが。
 シームレス地質図を見ると、仏像構造線(秩父帯=ジュラ紀付加体と四万十帯北帯=白亜紀付加体の境界断層)は小海線海尻駅付近で露出し、関東山地内を東京の五日市へたどれます。

 赤石山地内の釜無川は仏像構造線の破砕岩を掘り下げて流れていますが、厳密には断層の位置と完全には一致しません。川も多少は蛇行するし、断層面も垂直とは限らず、走向も微妙に変化しているし。釜無川の流路が現在の県境になっているのは人間の都合による線引きです。
 地球の時間スケールと人間の時間スケールには大きなちがいがあるので、150年程度の歴史しかない長野県側か山梨県側かという話は、あまり意味がないように思います。
 それに、信濃と甲斐の境は、信玄のころに変わったというようなことを聞いた覚えがあるのですが、いかがですか?
 
 
 

糸静構造線・先能露頭について

 投稿者:戸嶋 清房  投稿日:2018年 5月16日(水)21時43分39秒
  河本様、『白鳳峠の岩海』『高座岩の礫岩』『岡谷の横河川上流の結晶片岩 』についてのご回答、大変興味深く読ませて頂きました。私は深く調べる手立てを知りませんので、ご回答を読むたびに引き込まれる思いが致します。この連休に地元の糸静構造線・先能露頭に立ち寄りました。かなり前になりますが、河本様に画像を紹介させて頂きました。南アルプスジオパークの地図に記載されているものの、以前は現地に何の表示もありませんでした。今は説明版が設置されておりました。説明板の末尾に『南アルプスジオパーク・富士見町』と書かれておりました。現地から釜無川を挟んで、山梨県側(対岸)に大岩(石灰岩)がありますが、これは元々長野県側にあったもので、地殻変動で山梨県側に移動したと説明板に記載されておりました。私は、糸静構造線は左横ズレ断層と理解しております。中央構造線が、杖突峠から岡谷の横河川にズレでいることを考慮しますと、こう考えざるを得ません。そうしますと、長野県側にあった大岩が山梨県側に動いたのは、糸静構造線に関わる地殻変動ではなかったと考えざるを得ません。河本様なら詳細を御存じと思いまして投稿させて頂きました。宜しくお願いします。
 

伊那山地の範囲について

 投稿者:河本  投稿日:2018年 3月31日(土)16時47分6秒
編集済
   山地の名称や範囲に、きまりがあるのかどうか。伊那山地は、私の感覚では、伊那谷と、中央構造線が侵食されている谷の間の山地という感じです。ですので、ご指摘の範囲でよいと思いますが、静岡県内の部分は地元の人はどのように呼ばれるのでしょうか。観音山までは長野県飯田市や下伊那郡内や郡境ですが、遠州の人たちは「伊那」と呼ぶのは納得しないかもしれませんね。
 なお、伊那谷の人たちの中には「伊那山脈」「赤石山地」と呼ぶ人もいます。山地は山が集まりひとつにまとまっている地域、山脈は列が連なってひとつづきに連なっているものというイメージでいえば、赤石山地は、主稜線・白根三山-白根南嶺・甲斐駒-鳳凰三山という3列の山脈が集まった山地。伊那山地は幅狭い山脈というのもうなづけます。
 一方では教科書で山脈はロッキー山脈・アンデス山脈・ヒマラヤ山脈・アルプス山脈といった大山脈に使われ、山地というとやや低い小規模なものといった感じもあります。
 じっさいのところ、これという決まった呼び方はないのですね。ただし、10年ほど前に山地と山脈の使い分けについて学校教材の地図帳を出版している帝国書院に問い合わせたところ、以前に国土地理院と文部省が山地の名についてすりあわせを行い、それに準拠しているということでした。帝国書院の地図帳では、山脈は飛騨・木曽・赤石・日高・鈴鹿・讃岐に使われていたと思います。でもなぜ讃岐が山地ではなく山脈なのかということは「慣例」という以上の答えはありませんでした。
 帝国書院の地図帳では「伊那山地」で、学校教育ではそれが使われています。赤石山脈については、地質や地理の論文では赤石山地のほうが多いようです。
 
 

高座岩の礫岩

 投稿者:河本  投稿日:2018年 3月31日(土)11時17分50秒
   日朝上人が修行したと伝えられる高座岩は、長径20cmていどの大礫を含む、大小の円礫からなる礫岩です。礫種には花崗岩礫も見られます。同じ礫岩は大鹿にも分布していて、鹿塩の黒川で採集した転石が博物館にあります。
 高座岩礫岩は、ジュラ紀付加体である秩父帯と御荷鉾緑色岩体の間に、両側を断層で限られて挟まれた「戸台構造帯」中に分布しています。戸台構造帯中の泥岩からはアンモナイト化石、砂岩からは三角貝化石が見つかっています。化石の年代は白亜紀前期の約1億2000万年前のものです。高座岩礫岩の年代は直接に測られてはいませんが、砂岩や礫岩と同じ年代だとすると、領家花崗岩より古いので、高座岩礫岩中の花崗岩礫は領家花崗岩とは別の起源のものということになります。
 戸台構造帯に分布する地層は付加体ではなく大陸の河口付近~大陸棚の堆積物で、大陸起源の地質体です(海面下にあっても海溝までは大陸です)。断層で大陸の一部が切り取られて、ジュラ紀付加体中に挟み込まれたと考えられます。
 赤石山地では秩父帯北帯は失われていますが、関東山地・紀伊半島・四国では秩父帯北帯と秩父帯南帯の間に大陸起源の地質体が断層で挟まれていて、秩父帯中帯または黒瀬川構造帯と呼ばれています。戸台構造帯もその一部である可能性があります。ただし黒瀬川構造帯の指標になる約4億年前の古生代シルル紀の火山岩や変成岩は見つかっていません。黒瀬川構造帯には白亜紀の陸成層や海成層も分布しますので、戸台構造帯の場合は古い部分は大陸から切り取られた側に含まれなかったか、のちに断層運動や侵食で失われてしまったかもしれません。
 遠山地域では、青崩峠付近に古生代ペルム紀の花崗岩が見られます。また石灰岩からペルム紀の微化石が見つかっています。ただしジュラ紀付加体の石灰岩もペルム紀の化石を含んでいますので、戸台構造帯を黒瀬川構造帯の一部と誰でも納得するためには、もう少しデータがほしいところです。
 また、黒瀬川構造帯がもともとどこにあったのかということも、ゴンドワナ大陸から南中国が分離したときの大陸片だという見方もありますが、今のところ、まだ未解決と思います。

 
 

岡谷の横河川上流の結晶片岩(補足)

 投稿者:河本  投稿日:2018年 3月31日(土)09時53分3秒
   三好さんの論文では、岡谷の横河川上流に結晶片岩、下諏訪の砥川上流に御荷鉾緑色岩が見られること。赤石山地に併走して分布する結晶片岩帯と御荷鉾緑色岩体の幅を、横河川~砥川の距離にあてはめると、ちょうど横河川付近が中央構造線になると推定しています。
 横川川上流には泥質片岩・緑色片岩・蛇紋岩の露頭が見えていました。砥川上流では表層の崩壊礫と土壌に覆われて露頭は見えていなかったけれども、転石や、堰堤工事で掘られて地表に散乱していた角礫に、緑色岩とかんらん岩が見られた記憶があります。
 

岡谷の横河川上流の結晶片岩

 投稿者:河本  投稿日:2018年 3月30日(金)16時45分48秒
   横河川は北部フォッサマグナ側を掘り込んでいる河です。出速男神社付近では第四紀の火山岩に覆われています。少し上流では、火山岩を掘り下げて、河床には海成の泥岩が見られます。さらに上流の中ノ沢・菅ノ沢の合流点付近には、泥質片岩・緑色片岩・蛇紋岩が露出しています。
 これらは横河川が北部フォッサマグナの地層を掘り下げて、その下の古い岩石が露出したものと考えられ、三波川変成帯の岩石と考えられます。
三好壮一郎(1991)諏訪湖周辺の変成岩、島根大学地質学研究報告10、11-24
ir.lib.shimane-u.ac.jp/files/public/0/6337/20170425005718834822/c005010003.pdf

 外帯の三波川変成岩が横河川沿いに露出していることから、中央構造線は少なくとも横河川よりも北西側にあることになります。
 現在の諏訪盆地は糸魚川-静岡構造線の古傷が現在の東西圧縮によって左横ずれに動き始めたことにより造られているプルアパート盆地であり、その長径は岡谷-茅野間の12kmです。この諏訪盆地を造っている活断層の変位量の12kmで中央構造線が食いちがわされているとすると、ちょうど前宮と横河川の距離になるので、内帯側の岩石は見えていませんが、横河川からそれほど遠くない位置に中央構造線がありそうです。横河川の直線的な流路も、中央構造線の古傷が侵食されていると考えると説明できます。
 

仙水峠・白鳳峠下部の岩海

 投稿者:河本  投稿日:2018年 3月30日(金)16時17分14秒
  うっかりして、掲示板の確認を長期間忘れていました。申し訳ありません。

 仙水峠・白鳳峠下部の岩海の大小の礫は、ともに甲斐駒-鳳凰花崗岩の熱で堆積岩が熱変成を受けたホルンフェルスです。
 氷河が広がった氷期には、森林限界が低下し、南アルプスの稜線にも山岳氷河がありました。稜線の下の「周氷河地帯」は、露岩が露出し、凍結と融解のくりかえしで岩の割れ目が広がって、大量の礫が生産されました。当時はおそらく、周氷河地帯の全体が、現在の3000mの稜線付近のように、砕かれた岩石に覆われた状態だったと想像します。
 温暖な間氷期になり、これらの礫も風化して土壌に覆われていったと思いますが、高温で固く変成したホルンフェルスは風化しにくく、土壌になりにくいので当時の岩海の姿が残っているのではないかと私は想像しています。
 氷期-間氷期は10万年が1サイクルでくりかえしています。もっとも現在に近い氷期は「最終氷期」と名付けられていますが、数万年先に次の氷期が始まれば「最終」ではなくなりますね。最終氷期は約1万年前に終わり暖かい「後氷期」になりました。これも10万年後ぐらいに次の温暖期が来れば「間氷期」ということになります。
 今残っている岩海は、年代の測定結果はありませんが、おそらく2万年~1万年前にできたのではないかと思います。
 

伊那山地の範囲について

 投稿者:yama-take  投稿日:2018年 2月19日(月)22時27分45秒
  上伊那郡に住む登山愛好者です。博物館には一度山帰りにお邪魔したことがあります。
この掲示板見ますと地学の専門的なお話ばかりですので、このような質問をしても良いのか悩むところですが。
wikipediaによると、伊那山地は「諏訪湖の南から佐久間ダム付近まで」と書かれてます。
するとその経路は次のとおりで良いのでしょうか。1)岡谷ジャンクションー守屋山ー不動峰、2)五郎山ー戸倉山ー大萱山、3)大西山ー鬼面山ー谷京峠、4)熊伏山ーボンガ塚ー矢岳山
そう考えて今週矢岳山を歩き、あとは観音山ー矢岳山を残すだけになりました。
今になって熊伏山とか矢岳山が伊那山地であるという記述を見たことがないので心配になりまして、ここならお聞きできるのではないかと思った次第です。
地学的に「伊那山地」の稜線を特定することに意味があるか(1本の線が引けるか)どうかもわかりませんが、何かお答えをいただけることを期待しております。
 

(無題)

 投稿者:北村明  投稿日:2018年 1月 5日(金)17時34分17秒
  あけましておめでとうございます。

2014年に館長にお世話になりましたものです。論文を見ていただきました。謹んでお礼いたします。このたびホームページを開設いたしましたのでご連絡いたしました。今後もよろしくお願いいたします。

 gakuryoken.com

で検索してください。

http://www.gakuryoken.com

 

中央構造線の探査方法について

 投稿者:戸嶋 清房  投稿日:2017年10月15日(日)11時34分30秒
  私は諏訪地方に在住していますが、是非御教授頂きたいことが二つあります。
①中央構造線は大鹿村~高遠~杖突峠と続き糸静構造線(フォッサマグナ)と交差します。中央構造線はフォッサマグナが形成される前に既に存在していた筈です。フォッサマグナは深い峡谷で、日本海と太平洋をつないでいたと文献に記載されていました。このフォッサマグナが形成される過程でも土砂が堆積していった筈ですし、陸地化された頃には大量の堆積物に埋まっていたと思われます。その後、塩嶺火山、霧ヶ峰火山、八ヶ岳火山等の活動で火成岩で覆われている部分もあると思います。それなのに、杖突峠で途切れた中央構造線が、10キロ以上離れた岡谷から始まっています。ここから続く中央構造線はどうやって確認できたのか不思議でなりません。表層は堆積物に覆われていますから、どう考えても掘って確認できたとは思えません。是非とも教えて頂きたいと思います。できれば、どのくらい深いところで確認できたのかも知りたいと思います。
②過日、入笠山からほど近い『高座岩』に行きました。大きな岩でしたが、中に丸帯びた石が埋没しておりましたので、礫岩と判断しました。私は入笠山周辺は結構歩いていますが、礫岩を確認したのは此処だけです。地質図で調べてみましたら、細長くのびる『戸台層』となっていました。1億年以上前に形成された海成層で多くの化石(アンモナイトとか)が発見されていると記載されていました。この『戸台層』はどの様にして今に至っているのでしょうか?中央構造線に沿うようにのびていましたので、少しは関連性があるかと思って質問をさせていただきました。
以上、何方か御存知の方がいらっしゃいましたら、宜しくお願いします。
 

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