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(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 4月22日(日)21時04分5秒
編集済
  ・・今日は、二ツ塚峠を越えて日ノ出までポタリング。大久野のキリシタン石仏とその先平井にある鹿野大仏を目標とする。青梅から日ノ出に入る秋川街道ははじめ二度と走りたくないと思ったものだが、暗く長い坂道を一たび越えれば長閑な里の走りになるので我慢に慣れた。峠越えは下りになればとても快適。カヤクボというところで福生の永田橋からの街道とぶつかる。左折してしばらくいけば大久野の石仏、さらにその先町役場をすぎて塩沢の交差点まで走れば宝光寺があり裏山に大仏があるはず。・・で、今回はカヤクボをも少し直進し右折してつるつる温泉に向った。ここも何度か訪ねている。迷うところはない。街路樹のハナミズキが満開。平井川はほぼ涸れている。それでも奥にすすむにつれ水の流れがある。途中広場にサイクリストが大勢いる。あとで温泉に居たサイクリストに聞いてわかったが、この日昼前にロ-ドレーサーの競技があった。みな自慢の自転車で腕を競う。・・温泉も混むかと危ぶむが、ほどほど。ここの泉質はアルカリ泉で抜群。湯量が豊富で毎日源泉を入れ替えているという。・・温泉でちょっとおもしろいことがあったけど、どうもブログに書くのはどうか。自分だけの笑い種にして、かねての予定通りキリシタン石仏を探すことにした。カヤクボの交差点セブンイレブンがある。車から降りてきた人が「観音さまはどこですか?」など尋ねる。「え?」「大仏ですよ」観音はいっぱいあるから、鹿野大仏ならわかる。でもこの大仏観音さまなんだろうか。・・観音ではなく釈迦如来ですよね。もっとも宝光寺の本尊は聖観音像らしいが。・・テレビ、新聞でとりあげられてさっそく人気になったようだ。

・・地図で見たキリシタン像は大久野の羽生人形店の自家の墓地にある。この人形店をめざした。ここらあたりというので近所の人に尋ねた。ちょっとバックして左折という。ずいぶんと田舎道だが老舗のようだ。屋号は油屋という。民家の墓地なので、お店の人に許可してもらうことにした。運よく家の前にいらして、これこれしかじか云うと、名前と電話番号を書いてくださいとか、意外ときびしい。というか、いろいろ情報提供してくれてむこうも楽しそう。いつのものかわからないけれど、油屋という屋号はキリシタンと関係あるかもなど、意味深。また近辺にもキリシタンの噂がときどきでるそうだ。五日市の伊奈の石工たちも、キリシタンのものもいただろうというのが、わたしの推測。高遠から来たのなら、石工はキリシタンの可能性はある。この家の人もキリシタンか。・・道路を渡った山道を登りほんとに小暗い一画にかの石仏はあった。

何年か前に、これは結局キリシタンではないということになったそうだが、実見では、異趣の仏像。カクレキリシタンはひたすらキリシタンであること隠すものらしい。人形店の屋号油屋からしてただの仏像ではない。・・油屋熊八が大きく開いた別府や湯布院の温泉はキリシタンと縁が深い。湯水を浴びるのが洗礼と疑われ、湯布院などカクレキリシタンなど湯を控えて寂れた時期もあった。熊八はカクレることもないキリシタンであったという。

・・人なつこい仏像でこの場を去りがたくも有ったけど、手をあわせ一礼してそっとアーメンと称えた。いや不思議な仏像です。

次に、平井にある鹿野大仏。永田橋からの街道にもどりひたすら東へ進む。圏道高速まではいかずこの辺いつか妙見宮を訪ねたことがある。町役場を過ぎたあたりで人に尋ねる。もう信号ふたつ塩沢の交差点で左折してすぐとのこと。・・宝光寺。休日でやはり物見遊山の客がよく見える。ここの秋川霊園はおおきなものだ。ここの付属の大仏か。車とバイクには駐車料がいるが、自転車は駐輪可、拝観料はなし。裏山の参道はけっこう長い。人も多い。

 
 

・・

 投稿者:かぐやまの花こ  投稿日:2018年 4月21日(土)22時37分49秒
  芭蕉木像

  ①北枝が刻んだもの。
  ②許六が刻んだもの。
  ③其角の門弟湖十が所持し、のちに漁千、万和、岱年、梅笠に伝来したもの。

おもしろいのは、③ 梅通筆「芭蕉翁肖像伝来書」付録。梅通筆「正風伝系」(嘉永5,1枚)

1852年。

天保十年頃 梅笠 春秋庵主継承 1839年
 

・・

 投稿者:かぐやまの花こ  投稿日:2018年 4月20日(金)23時43分20秒
編集済
  上島 鬼貫 万治4年4月4日(1661年5月2日) - 元文3年8月2日(1738年9月15日)

鬼貫五十回忌  1787年

骸骨の上を粧て花見哉  鬼貫
青梅はその骸骨のみのり哉  机月

1789年 フランス革命
1790年 中原章 没

・・林曹(梅室門)花の本八世 1802-1861 伊丹の俳人を訪ねる 糠人、曲阜

梅通 花の本九世 1797-1864

・・

梅笠  1863年没(59歳)『時雨文庫』1843-1848
             『霜花集』1849
 
 

・・

 投稿者:かぐやまの花こ  投稿日:2018年 4月17日(火)21時18分50秒
編集済
  この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。

清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。

「この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を焼かれて死亡。紀蔭連は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も2名死亡した。」

延長八年六月廿六日戊午、諸卿侍二殿上一、各議二請雨之事一、午三刻従二愛宕山上一黒雲起、急有二陰沢一、俄而雷声大鳴、堕二清涼殿坤第一柱上一、有二霹靂神火一、侍二殿上一之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫、衣焼胸裂夭亡(年六十四)又従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼而臥、又登二紫宸殿一者、右兵衛佐美努忠包、髪焼死亡、紀蔭連、腹燔悶乱、安曇宗仁膝焼而臥   『日本紀略』

・・

北野天満宮
京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町

北緯35度01分52秒  東経135度44分06秒

紅梅殿の、少し南・豊国社前に
●連歌所の井戸 が、ある。

立札の説明板によると・・
文道太祖・風月本主と仰がれる天満宮には
連歌会所があり、宗砌・宗祇をはじめ代々
その会所奉行をつとめ、室町より江戸にかけては
盛んに連歌会が行われ、毎月18日には月次会が
興業せられた。
また、2月25日の御忌日、6月9日の宮渡祭日、
8月4日の例祭日には年中恒例連歌が興業せられた。
連歌を献じて神の御意を慰めることを法楽といい、
当宮の法楽は「聖廟法楽」と称し毎月25日に
催され、朝廷をはじめ広く庶民にも親しまれて
いた。

・・・・天満宮と連歌の関係は室町時代にさかのぼる。
・・北野天満宮の法楽は「聖廟法楽」と称し
禁中にて和歌連歌の会が催され、さらに毎月25日に
連歌が催され、連歌の席に天神像がかけられる
ようになった。
足利義満は明徳2年(1391)、北野一万句興業をなし、
永享3年(1431)には足利義教も千句興業を催し、
豊臣秀頼も十万句の連歌会を行っている。
連歌会所は連歌堂ともいわれ、永享のころから
会所奉行が置かれ 高山宗砌がこれに当たり、
宗匠の号を許され、
「神に人むすび よるべの しみづかな」と
詠んでいる。

・・ついで長享2年(1488)には宗祇(*そうぎ・
室町時代の連歌師)が足利義尚より
奉行に命ぜられ、文明8年(1476)、猪苗代 兼載
(*いなわしろ けんさい・戦国時代の連歌師)も
北野会所 別当に補せられ、いづれも宗匠であった。
そのご 一社中からは梅林坊 能順が最初になった。
また連歌は北野学堂でも行われ、神、歌、儒を
研学したが、中で、連歌道を第一とした。

・・一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、
「私の魂を祭るべき地には一夜にして
千本の松を生じさせる」という道真公のお告げに
よって、この一帯に生えた松に宿る神霊をいう。
境内に多い松の樹々は、この一夜千松の名残りと
される。

・・この一夜松については、前参議 菅原為長【1】
(古人13世の孫)は「寄松述懐」と題して
「一夜松 千代の末葉の老木まで
   木 たかくなりぬ 年も位も」と詠み、
後水尾院の御製にも
「ただ願ふ 北野の宮の一夜松
   二つの道の為かは」と歌われ、
薩天鋳の詩に、「千里飛梅 一夜松」とあり、
歌人 有賀長千鄰(ながちか)も、
「松延齢友」の歌に、
「ひとよとの 名の生ぬれど 北野なる
  松をぞ千代の 友垣にせむ」と、
数限りなく詩に歌に、

 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 4月14日(土)17時06分13秒
  ・・この神社の奥の院にタブノキの大樹がある。これを見るためには裏山をもう十分ほど登らなければならない。昨今奥多摩飯能にも熊が出没し注意の看板がでてる。歩道の段があっても落ち葉で埋もれていて足を滑らせそう。当然のように無人で樹間が透いて見える。風音で熊が出たのではないかとひやりとする。

このタブノキの詩をきっと読んだ記憶がある。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 4月13日(金)20時11分14秒
編集済
  ・・飯能上直竹にある富士浅間神社を訪ねた。・・先日の秩父輪行で帰路高麗の駅でちょっとしたトラブル。自転車の組立で後輪ブレーキのワイヤーが手元ハンドルから外れてしまった。タイコと呼ばれる掛け金が外れている。何のことはないまた元に戻せばよいだけと多寡をくくったのが失敗。あれこれやったがどうしても引っ掛からない。ワイヤーが切れた訳でなくタイコが外れただけだから気を落ち着けて何度もトライしたが、Vブレーキのタイコ部分はよく見てなかった。うまくいかない。・・自力修理はあきらめて駅員さんに自転車屋さんは無いか尋ねたが、もとよりこんな高麗の片田舎であるわけがない。仕方なく駅の通行人のそれらしきに自転車は詳しくないかヘルプの声かけになった。溺れる者はワラをも掴む感じであったけど、二人目くらいの人が詳しくないけど助力に来てくれた。涙。・・ああでもないこうでもないもうあきらめかけた時、どういうわけかカチッとかかり復旧か?これは完全ではないという。・・しかしこれで何とか誤魔化して帰宅するしかあるまい。涙の感謝でお礼を言って、日も落ちかかっている帰路に着いた。で、この日は無事帰宅することが出来たのだ。アドレナリン(?)が出るほど緊張して、助けてくれた人に「おじさんありがとう」などいってしまったが、こちらがおじさんであった様で失礼千万限りなし。

・・当分自転車は乗らずに居て、今度はママチャリの後輪タイヤがパンクの様。空気が減っている。バルブの不良だろうと思ったが外してもまだ使える。あきらめて本格パンク修理にかかる。んで、これは去年何度もやってたので、経験を生かし、まったく完璧に修理した。オシャカのパソコンを復活させたくらいの感動、とはいえブレーキワイヤのタイコ掛けはまだ自信がない。・・それで今日はひさしぶりに飯能にポタリング。

・・小曽木街道岩蔵温泉郷から飯能南高麗に向う道。岩井堂からの道を横切って山王峠に向う。通いなれた道だが、峠にあがる手前は上直竹、近くにゴルフ場もあるらしい。左折して山道の懐に富士浅間神社がある。なぜこんなところに?神社ではあるが、木花開耶姫命、天照大神、加具土神、倉稲魂命、天之御中主大神、大山祇神、崇徳天皇など祀るほかに、倶利伽羅不動明王をも祀っている。神仏混交はよいとしても、崇徳天皇がここにというのは不思議。ここもある種のパワースポット。

富士浅間神社  N35度50分38秒 E139度15分11秒

伊那にある六道の堤  N35度50分39秒  E138度01分37秒

東西線は岩井堂よりぐっと近くなる。

 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 4月 9日(月)15時11分52秒
編集済
  ・・小鹿野町役場から下吉田に向かうに道を尋ねた。R299を秩父の方へバック、交差点泉田というところで左折、直進して二つ目くらいの信号で右折。まっすぐ行けば33番札所菊水寺へ行ける。秩父駅の帰路もR299でもどるのが無難という。・・ざっと頭に入れて最初の交差点は、信濃石という。小鹿野で信濃石とはいかに?右も左も関東山地に囲まれたような秩父の僻村にどうして信濃石があるのか、帰宅してネットで調べたらわかった。R299(国道299)は、武州街道と呼ばれるが、埼玉の入間と飯能を経由して秩父小鹿野さらに群馬の上野村、十石峠から長野県に入り麦草峠、八ヶ岳を回ってメルヘン街道で茅野市に出る。総距離200kmほどの古道だ。信州と秩父、武蔵野の入間を結ぶ。

「十石峠(じっこくとうげ)は、長野県南佐久郡佐久穂町と群馬県多野郡上野村の間にある峠。 かつて米のとれない上州地方西部の山間部に、信州佐久平から一日十石の米を運び込んでいた道であることからこの名がつけられたとされる。信州からは米、味噌、醤油などが、上州からは炭、紙などが運ばれた。往来する馬子達が歌った「十石馬子歌」が今に伝わる。」

・・武州街道、江戸の俳人果たして歩いたものいるだろうか?

「十国峠(日金山)は箱根外輪山から南に続く尾根(標高765m)で,風衝(ふうしょう)によりハコネダケ,アズマササ,ミヤクマザサなどのササ類とハンノキ,アセビなどの低木林が優占している。日金山は古くからの信仰の地で,中世以降,伊豆山権現と箱根権現を結ぶ信仰の道の要所として,あるいは,「山中他界」として死者の集まる霊山として知られるようになった。」

こちらの十国峠は、みなよく歩く。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 4月 4日(水)21時53分11秒
編集済
  ・・今日は秩父路へ輪行。青梅から小曽木街道を走り東飯能駅で自転車を分解、袋につめて西武秩父まで輪行の予定だった。朝の通勤時は輪行に不向きというので高麗駅まで走りそこから西武秩父に向うことにした。高麗の駅までなら90分で行ける。初秋の頃の巾着田彼岸花はすごいです。予想通り閑散とした駅前で自転車の分解も容易に出来る。ただしこの袋詰め今でも自信ない。不測の事態を恐れたが帰路トラブルあって大変でした。・・往路は順調で電車にはやはり輪行の若者がいて彼は装備も万全、いい自転車に乗っている。というか私一人が安物のクロスバイクで装備もありきたり。西武秩父駅にはやはり若者が自転車の組立中。すこし話した。大学のサイクリングクラブの仲間で来てるという。学生のサイクリングクラブというのは憧れで自転車のスキルは相当なものでしょう。いつか北海道の支笏湖YHに女子2人で自転車ツーリングしてた。やはり大学のクラブという。女子というのがすごい。自転車ツーリングというのは本当におもしろい。火野正平、将棋指しの桐谷とかいうのも自転車道楽とか。自民党の谷垣さんは事故ってしまいましたね。

・・飯能から秩父に入る西武線。飯能と秩父の境が正丸峠。ライダーや自転車乗りのメッカといえる。秩父に行くのにここは絶対越えねばならぬ。二度ほど登ったがもういい。下の正丸トンネルというのはまったく恐い。ここも二度はごめん。というので飯能-秩父は輪行という選びになった。この輪行というの何度やってもうまくない。

・・目標は、小鹿野町役場にいって近くに十輪寺という寺がある。小鹿野に行くのがむずかしく、山を越えねばならぬ。観光案内所をまず訪ねるのは欧州でよくやった。ネットで調べた道があったが、案内所のお姉さんによると余りよい道ではない。すこし遠回りだが299という国道を勧めてくれた。秩父は荒川に沿って鉄道があり川向こうに丘陵があってその向こうが秩父市吉田や小鹿野になる。この丘陵越えが思案の種だった。坂が多いのはよいとしてもトンネルはごめんだ。大丈夫トンネルは無いという。

・・木曾義仲を知っているだろうか。芭蕉が義仲の隣りで眠りたいという。彼は武蔵いまの埼玉嵐山の生まれという。母親が秩父国司の娘で小枝という。かわいい名だ。悪源太義平にいじめられ木曾に逃げた。もともと向こうの人かと思っていたが意外。芭蕉は義仲の出生地には興味を示さなかったようだ。・・秩父というのは以前和銅黒谷を訪ねて大変に愉快だった。特に若い女子はみなかわいかった。小枝のような女子がたくさんいる。

西武秩父は駅前に温泉がある。都心と直結した駅だから人混みもままある。師走の頃の秩父火祭りは有名でよく盛り上がるという。寄居から荒川沿いに上るより飯能経由のこの線が観光によく池袋からの特急も組まれている。・・今日は駅前の温泉でなく下吉田にある星音の湯をめざした。ここも299で行ける。
小鹿野町役場まで80分ほどとある。この町役場も観光の売りになってるようで、行ってみて分ったが、宮澤賢治の歌碑がある。賢治がこの小鹿野まで訪ねて来てるようだ。

この歌碑で想い出した。町役場のすこし先に十輪寺という処に芭蕉句碑がある。「むめが香にのつと日の出る山路かな」翁百回忌(1793)に建立。十輪寺「花まつり」というのもある。文化財も豊富で、表門の仁王像だけはすこしだけ拝顔した。秩父は古い寺社がたくさんあってどう歩いたものか。秩父34箇所観音霊場廻りというのがよく行われている。この十輪寺は外れてるようだが、次に訪ねた下吉田の菊水寺は第33番札所になる。芭蕉50回忌の句碑もあり、埼玉でもっとも古いもの。

秩父路はヤマトタケルが訪れた伝説は、奥多摩以上に多い。こちらから甲州に入るに雁坂道というのがあってでも昔はどうですか、雁坂トンネルは近代に入ってから、雁坂峠は超難所と聞く。このトンネル平成10年の開通で山岳トンネルとしては6625mで国内最長という。戦国の武田信玄はこの峠を越えたらしい。
小鹿野の街道など長閑で楽なものだ。菜の花やシバ桜、枝垂桜や山桜ももう散り始めているが、山も黄芽がうっすらで、下吉田の菊水寺まで至福のサイクリング。

菊水寺は、秩父34箇所観音霊場の第33番だが、今は大櫻山長福寺という。折から桜が満開でちらほら散り始めていた。句碑は「寒菊や粉糠のかゝる臼の端」元禄六年(1693)『炭俵』というが、青梅にもよく訪ねた建部綾足の揮毫で、ほぼ読めない。綾足は1743年にこの菊水寺に滞在したようだ。・・秩父34箇所観音霊場というのは、西国33箇所観音、坂東33箇所観音と合わせてちょうど百観音霊場となり、観音巡りは満願でこのあとに長野善光寺にお礼参りに行くのが慣わしという。
「観音さまが、観自在菩薩と呼ばれる理由は、観音さまを一心に念ずると、自由自在にお姿を変えて救ってくれる、という所以からです。その変化のお姿が三十三身あるとされ、観音霊場の札所が三十三になった起源であるといわれています。」
帰路、駅近で「札所十二番はどこですか?」など尋ねられたが、「すいません。この土地のものでありません。」ともかく札所巡りは盛んなようだ。

菊水寺のほんのちょっと先ですね。星音の湯は。自家源泉の温泉で開業はそんな古くはない。温泉は湧出が新しいほど泉質もよい。ナトリウム炭酸水素塩温泉、無色透明のアルカリ泉ですな。泉温17.4度というのは鉱泉の部類か。規定の25度以上なくても泉質により温泉とされるようだ。併設されたリゾートホテルもあって若かったらゆっくりできそう。夜は星空がとりわけよさそう。暇と資力がなくて残念。



 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 3月30日(金)21時18分39秒
編集済
  ・・StonesのPaintitblack、Gimmeshelterに触発されて日夏耿之介「黒衣聖母」の評をと構えたが、ワープロで出せない漢字がいくつもあって、即挫折。耿之介は芥川が若い頃に強く揺さぶられた一人。おもしろいことに信州飯田の産という。飯田とこの隣りの下伊那上伊那は井月が網の目のごとく漂泊して歩いた土地だ。
文禄2年(1593)より京極高知が信濃飯田城に入った。キリスト教の布教を許し自らキリシタンとなった。関ケ原の戦い(1600)は東軍につき、戦後、田辺城、宮津城に入り丹後宮津藩主となる。京極高知について、孫引きになるが、

「高遠(信濃)の大名京極高知の改宗があった。京極氏は佐々木氏を祖とし、頼朝の時代まで溯ることが出来る有力な家柄であった。(中略)1595年(○文禄4年)、同家の総領高次(○霊名不詳敬重7年受洗)は、父祖伝来の領地膳所を治め、弟の高知は高遠の枢要な采邑を得た。彼は同所で兼ねて彼の勧めによって領内に説教しに来てゐた宣教師から洗礼を受け、ジョアンといふ霊名を授けられた。」シュタイシェン著『キリシタン大名』(吉田小五郎譯 昭28年乾元社)

・・飯田、高遠と多くキリシタンが生れた。高知受洗と同じくして秀吉のキリシタン弾圧もはじまった。以降、徳川のキリシタン弾圧の歴史からしても、飯田、高遠は隠れキリシタンの里になっただろう。


 世の中は三日見ぬ間に桜かな

・・朝から霞川サイクリングロードを走った。知らぬ間に桜の盛りだ。桜ばかりでない、連翹や水仙やなにやらの花でいっぱい。かすみ川のこの道はいつかきた道と想い起こすに今一歩。もう四五年は生きていたい。・・平日で人がよく出てる。岩蔵街道をこえ、薬王寺のあたりは何といったか小谷野いや今井だな。そこも越え、八高線のあるのは飯能街道のある金子のあたり、小高い丘は加治丘陵、右手には狭山の茶畑、川沿いにも飽きてきて茶畑一面の道を走る。思い立ったポタリングは爽快、正解。

・・16号にでる前に加治丘陵よりに古風な社があった。寺だな。明王寺という。江戸期の奉納額というのがあって俳句がたくさんある。どうも加舎白雄のお弟子さんたちが納めたものらしい。そういえば白雄の武蔵野紀行にかすみ川を歩いたとかあった。この土地にも根を張っていたのがわかる。

16号を横断して、ここは入間市。扇町屋という地名が続く。豊岡の愛宕神社を訪ねたかった。ざっとネットで調べておいたけど、この辺も迷路の様、かすみ川に沿って、16号を横断すると、しばし川を離れるが、神社は近いはず。

ひらひらとあぐる扇や雲の峰   芭蕉

・・句碑探しもうまくなったものだ。芭蕉最晩年の句という。近くに扇町屋という土地があってそこの誰それが句碑を建てたようだ。
 

大雁塔

 投稿者:かぐやまの花子  投稿日:2018年 3月22日(木)01時23分27秒
  ・・(だいがんとう、拼音: Dàyàn Tǎ)とは、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。

・・菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来する。
 

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