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(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年10月13日(金)10時42分17秒
編集済
  ・・お天気は都心は11、12日がホワイトボックスで晴れマーク。サイクルツーリングに出た。多摩川CRで国立まではお手の物。この先甲州街道は車道は難関。府中大国魂神社から旧甲州街道に入ればずっと楽な道になる。調布に出るに何度か使った道だ。途中早めに本道へ出たので地獄の甲州街道は歩道を走る。つつじが丘明大前まではこの道しかない。代田橋から井頭通りに入り渋谷へ向うコースを予定したが交番の案内で変更。笹塚までいってここから中野通りを右折あとは道なりで駒場日本近代文学館に行ける。・・近くまでいったがこのあたり入り組んでいて迷路の様。東大駒場のすぐ近くに文学館はあった。「漱石・芥川・太宰から現代作家まで」特別展示開催のはず。芥川を看取った下島勲の日記が見たかった。辞世の短冊句も展示があり、「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の解説文で「水洟や」とあるので担当学芸員を呼んでもらい「洟」→「涕」に訂正を強く要請。若い女性でしたが説得できた模様。この評論は未発表だが自信はある。

・・この後は一路浅草に向う。一度甲州街道にもどり新宿駅に向った。例によって人混みも車も多く何度か足着き歩行になる。青梅街道から靖国通りで飯田橋交差点までそこから春日通りに出ればまっすぐ湯島天神のわきを通って隅田川は吾妻橋に出るはず。

・・前回見つけられなかった新吉原の跡地。今の吉原とは場所も違うのか、ともかく吉原神社を探してみた。大正の震災の時、川端康成と芥川が被災の様子をみてまわったという。火事になって悲惨な遊女たちがたくさんいた。吉原神社奥の院というところにでた。ここに記憶がいっぱいあった。

吉原大門通りの大門を確認したかったが、昼間から客引きがあって冷やかしのヒマもなくそそくさとここを去り、言問橋のあるところに向った。川向こうの長命寺を探した。「いさゝらは雪見にころふ所まて」芭蕉雪見の句というのはめずらしい。春秋庵九世梅笠の墓もあるというので探したがみつからず。
寺のお内儀に尋ねたところ、過去帳にはたしかにあるそうででも墓はみつからない。以前にも梅笠を訪ねてきた人がいたとのこと。梅笠を追うというのは、自分以外にも存在するというのは、発見ですこし張りもでてきた。過去帳にあるなら本名もわかるかもしれないと思ったが、もう次の訪問地要津寺に向っていた。

・・両国駅の裏の回向院。その脇道から南へ、墨田区千歳二丁目。要津寺はなんなく見つけられた。元禄の頃、将軍綱吉の側用人だった牧野成貞が中興開基。「父の儀成は、越後長岡藩主・牧野忠成の弟で、上野大胡藩主・牧野康成の三男であった」。牧野成貞の側用人跡目が柳沢吉保という。笠間藩牧野家の菩提寺というので代々の墓が今でも営まれている。井月は仕事柄ここに立ち寄っているはずである。・・要津寺が井月にとっても自分にとっても注目に値するのは、ここに置かれた雪中庵石碑群というもの。
「・・雪中庵とは芭蕉三哲の1人である服部嵐雪(1654-1707)の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781-1789)の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。」
これらの石碑、「芭蕉翁俤塚」碑、嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔はよく認められますが、他はよくわからない。写真のススキに埋もれているのが蓼太の墓碑かと見える。住職さんがたまたまみえて一般の墓地には進入禁止ということでした。牧野家の墓はそれでも一目とお願いしほんとに一目で頭を下げて参ったのです。長命寺でも墓地に仕切りをつけて一般人は入れないような仕組みがよく見かけられます。千社参りというのが嫌われているようですね。

芭蕉翁俤塚(おもかげづか)

宝暦13年(1763年)10月12日、大島蓼太が芭蕉翁七十回忌に建立

「みかの月 弓矢のともに すてし身を 草の庵に ふししはの むすひし夢に はゝきゝのありとは見えす あさかほの しほめる花の まほろしを とくうつしゑの ふてとけし その翁さへ なくそちの(本ノマゝ) おもかけ塚を したはさらめや」

・・何度読んでも、意味イメージが錯綜する。

ほかに「古池や」の句碑もあるということだったが、すっかり動顛してしまい確認できず。そそくさと近くの長慶寺に向った。住所を控え忘れたため、地図の記しを頼りに人に聞き聞き、あきらめかけたところで所在がわかった。ここもいろいろ碑がある。芭蕉時雨塚というのが、謂れ古い。「元禄七戌十月十二日はせを浪花にて卒せしを聞て江戸の門人杉風・其角・嵐雪・史邦等翁之落歯并発句を埋めり、其句に、世にふるも更に宗祇の舎り哉」とあり、芭蕉が没した元禄7年(1694年)10月12日の2ヶ月後に芭蕉の門人たちが芭蕉を偲んで、句塚を建てた 」ただし戦災などで碑の痕跡はほとんど認められない。其角、嵐雪の墓もあったが、これは近年に再建されたものか。由緒ある碑蹟だが、なんとも埋もれた風。管理がだんだん手薄になる気もする。

・・清澄庭園の隣にある雄松院に斯波園女の墓がある。ここはどういうわけか大変に清潔な管理がみえる。
「白菊の目にたてゝみる塵もなし」死の数日前に翁が詠んだ。

・・

さて今日のラスト。深川不動堂、富岡八幡宮に向った。芭蕉庵のあったのは深川常盤、同じ深川でも不動堂まではすこし離れている。去年も一度訪ねたが、ほんの寄っただけだった。富岡八幡の前で園女が眼科医を開いていたなど知らなかった。公園に歌仙桜の碑があるという。いまはただの公園だが昔は三
十六本の桜が人を集めたという。芭蕉没後、園女は江戸にでて其角を頼った。其角の住居は日本橋茅場町というので、いまはぽつんと住居跡の碑がある。これも後で訪ねてみた。其角の庵の隣りに荻生徂徠が住んでいたというから、なんともにぎやかなこと。「梅が香や隣は荻生惣右衛門」と其角は詠んだ。

・・不動堂は、たいへんな人気で人混みも多い。案内所で成田山出開帳の記録資料を求めた。なんとうれしいことに「深川不動堂関連年表」の写しをいただいた。ここの不動像の由来とか、秘仏でもご覧になれますよというので、本堂へいってみたら、たしかに不動像が垣間見えた。日野高幡不動を先日拝観したが、それと違って烏天狗のような迫力がある。

二日目。自転車で遠出して温泉に行くのが常だったが、今回はあわただしい。永代通りから日比谷通り、三田の聖坂に向った。途中増上寺は浄土宗の大本山という。江戸の徳川はたしか浄土宗であったと思う。朝早すぎて外から眺めるだけ。甲賀流忍術の検定など告知があったが、?よくわからない。

・・三田の聖坂は、途中、小さな亀塚稲荷神社がある。ここには港区最古の板碑が五基集められいる。「阿弥陀信仰に基づく供養石塔で秩父青石(緑泥片岩)製」という、「5基のうち3基については鎌倉時代中期から南北朝時代前期にかけての、文永3年(1266年)、正和2年(1313年)、延文6年(1361年)の年紀銘が確認できる・・新田義貞一族の霊を弔うための碑だと伝えられている。」
この稲荷のご神体は、坂の上にある亀塚公園にあった更級日記ゆかりの亀石ということだが、確認はむずかしかった。

・・さて、どこかで見た桜の写真。えもいわれぬ桜の花。たしか乙女桜というので来福寺で検索。ここは大島蓼太の「世の中は三日見ぬ間の桜かな」句碑がある。延命桜というのが売りだそうだ。これかな?隅田河畔の長命寺も桜で名高い。菓子屋があってここがはじめの桜餅屋とか。一葉「たけくらべ」の美登利もこの辺の娘だったとか。記憶が錯綜している。

・・品川歴史館を訪ねた。第一京浜15号から品川、大井一帯は錯綜して迷路の様。区立歴史館というので、大森貝塚とか東海道品川宿とか特別展示あるも眼目は「大井に大仏がやってきた!」過去の展示カタログがみたい。高輪にあった如来寺がこの大井に移った。木食坦唱の五智如来像がみれるのは、この先の養玉院如来寺。歴史館では、品川のこと根堀葉堀学芸員に尋ねた。安政の地震や大洪水のこと。海に近いのに被害はほとんど報告されていない。特に1856年の大洪水で江戸10万人の死者が出たなど、嘘くさい。前年の大地震で死者7千余人というのは深川不動堂の記録にある。大地震では、浅草深川一帯は大打撃だったのは、真実らしい。大井大仏展のカタログはなかなか充実している。

・・歴史館の前は池上通り。すぐ前に交番があった。ここで養玉院に行く道を尋ねる。やはり迷路のようで、一度大井の駅まで出るルートを教えてくれた。目的地への道がわからなくなると片端から人に聞くのが癖になってきたが、これもコツがあってうまくなったものだ。ほどなく念願の養玉院如来寺に着いた。

・・木食坦唱の五智如来像といっても、寛永13年(1636)に品川高輪に安置されたものが、度重なる江戸の火事で一度は焼失している。代々の木食僧が1760年頃再造立したもの。京都の蓮華寺にあるものは石造の五智如来だからこちらは坦唱上人のものだろう。養玉院と如来寺はもともと別の物だった。一つになったのは大正年間のこと。如来寺については天海が強力に坦唱を支援したようだ。ここがおもしろい。
 
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年10月10日(火)18時08分27秒
編集済
  ・・ひきこもりが続くと外の世界が半ば恐怖。よく晴れたから自転車を軽く整備して小曽木街道から岩井堂までポタリングに出た。明日のために。横難横死といって不慮の事故は横からやってくる。方位を見るに、東西線に関わるときは南北が邪線で、南北線に関わる時は東西が邪線に働くから、横難横死に負けないためにも四方から垂直に緊張する走りが希求される。浜松天龍区にある秋葉神社には武田信玄の太刀が奉納されてある。他の名将もよく太刀を納めるのは横難横死を防ぐための祈願だという。・・ヤマトタケが駿河の草原で火に追い詰められた時、草薙の太刀で草を切り払い迎え火を放って逆賊を退けたのは、太刀と火打石の御蔭であった。関ケ原の戦いの時、細川幽斎が敵陣に囲まれながら田辺城で古今伝授をなしとげたのは武士の本懐としては異質ながら歌人の正道を守る優位の心であろう。古今伝授の太刀というものがある。

・・例によって青梅坂。よい坂だが思い立つまでが、難。途中栗がいくつか落ちている。今年も落ち栗の旬の季節を外した。落穂ひろいさながら、二三拾ってみる。時と場所さえよければ、いくらでもよい栗ひろいができるのだが。・・小曽木街道はやけに大型車が走る。岩蔵温泉のカフェも訪ねてみたいが今は時間がない。岩井堂まで到達したい。浅草寺の本尊観音像はここから川に流れたという。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年10月 4日(水)20時43分9秒
編集済
  ・・秋のサイクルツーリング。

①日本近代文学館-②長命寺-③要津寺-④長慶寺-⑤雄松院(園女墓)-⑥富岡八幡宮

二日目  ①聖坂亀塚稲荷神社-②長松寺(徂徠墓)-③如来寺-④品川歴史館-⑤池上本門寺
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 9月26日(火)12時33分42秒
  要津寺  墨田区千歳2-1-16

>・・臨済宗、京都妙心寺末で、慶安年間(1648-1651)に僧東鉄が本郷に創建して、東光山乾徳寺と号しました。牧野越中守成儀を開基、西江和尚を開山とします。その後、天和2年(1682)に焼失して廃寺となっていました。元禄4年(1691)2月に牧野備後守成貞が本所の地に7134坪を下屋敷として給せられ、よく3月9日、その一部を寺に寄付し、再興されました。これによって成貞を中興開基、中興開山を梁伝和尚とします。

・・常陸笠間藩主牧野家は、成貞に始まります。成貞は徳川綱吉に仕え、側用人となり、綱吉が度々成貞邸に訪れたというほどに信頼された人物でした。三代後に常陸笠間に移封され、以後廃藩にいたるまで笠間藩主として存続しました。明治維新以後に跡を継いだ貞寧は、本所区緑町(現緑二丁目・亀沢一丁目)に住み、本所小学校(昭和21年廃校)の学務委員を務め、地域の社会発展のためにも貢献しました。
その墓所のある要津寺は、慶安年中に牧野成儀を開基として本郷に創建されました。成貞が元禄4年(1691年)に下屋敷の一部(現在地の一部)を寄進して寺を移し、寺号を成貞寺としましたが、後に成儀の法名を採り、要津寺と改めました。
現在も代々の藩主が眠る牧野家の墓所は周囲よりも一段高い土台の上に石組をめぐらせ、正面に三つ葉柏の家紋と「牧野家代々之墓」と刻まれた墓碑、前面に4基の燈籠が置かれています。(墨田区教育委員会掲示より)

雪中庵関係石碑群

・・雪中庵とは芭蕉三哲の1人である服部嵐雪(1654-1707)の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781-1789)の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。

芭蕉翁俤塚(おもかげづか)

・・宝暦13年(1763年)10月12日、大島蓼太が芭蕉翁七十回忌に建立した。

深川六間堀東光山要津寺中ニ在

俤墳

碑陰

 宝暦十三年癸未十月十二日 雪中庵門人建

みかの月 弓矢のともに すてし身を 草の庵に ふししはの むすひし夢に はゝきゝのありとは見えす あさかほの しほめる花の まほろしを とくうつしゑの ふてとけし その翁さへ なくそちの(本ノマゝ) おもかけ塚を したはさらめや


雪中庵蓼太

 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 9月23日(土)23時01分38秒
   思ひ出でて恋しき時は初雁のなきてわたると人知るらめや  大伴黒主


・・
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 9月22日(金)21時52分17秒
  東常縁 - 頼和・常和・胤氏(素純)

・・

尭恵 → 頼和・常和

宗祇 → 素純


とくよりも出向ふ士峯や初日影
 

・・

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 9月21日(木)12時01分17秒
  Canst thou bind the cluster of the Pleiades,Or loose the bands of Orion?
(JOB38-31)

KING JAMES VERSION では、the cluster → the sweet influences

あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。

・・
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 9月 2日(土)11時59分16秒
  ・・三条地震(さんじょうじしん)とは、文政11年11月12日(1828年12月18日)に、新潟県三条市付近で発生した地震である。想定される震央は、北緯37.6度、東経138.9度(三条市芹山付近)と推定され、想定されるマグニチュードは6.9と推定されている。

(瓦版)「弥彦山は大きく崩れ、海の中へ押し出し、三条町・燕町・東御門ぜき御堂・大門など残らず揺り倒れ、田畑・山川が崩れ、人馬・けが人はその数知れず、余震が十四日まで頻発した古今稀なる大地震」

弥彦山  北緯37度42分17秒 東経138度48分32秒
弥彦神社 北緯37度42分24.1秒 東経138度49分33.6秒

天目山棲雲寺  山梨県甲州市大和町木賊122
     北緯35度39分38.2秒 東経138度48分38.4秒

弥彦山頂  御神廟(奥の宮) 弥彦山頂に鎮座する。天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。

祭神 天香山命 (あめのかごやまのみこと)
「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。

・・通称「志田大太刀(しだのおおたち)」。室町時代、備前長船派の刀工家盛の作。刃渡220.4cmの大太刀。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 8月31日(木)19時32分50秒
  ・・限りない郷愁。touch me, growing my heart シャンソンne me quitte pasなど軽妙な感性よりずっと直接的でoutsiderでしょう。やはりマイ嬢です。ne me touche pasというのは復活したイエスの声。

大いなる郷愁は死が近いかも。

イカルあるいはイカルガ。

・・イカル(鵤、桑鳲、学名:Eophona personata)とはスズメ目アトリ科の鳥類である。木の実を嘴(くちばし)で廻したり転がしたりするため古くは「マメマワシ」や「マメコロガシ」、木の実を好んで食べるため「まめうまし」、「豆割り」などと呼ばれた。・・「鵤」は角のように丈夫な嘴を持つ事に由来する

比志利古木利(ヒシリコキリ)
月日星(ツキヒホシ)

・・と啼くそうだ。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 8月26日(土)10時04分26秒
編集済
  「出雲路ノ毘沙門堂ニテ、人々連歌シテケルニ、
  ウスクレナヰニナレルソラカナ
ト云句ニ、ツケ煩テ、三十余句返テケレバ、興モナカリケルニ、東入道ノ、シノビテ聞ケルガ、
  アマトブヤイナヲセ鳥ノカゲミエテ
ト付タリケル。時ニトリテ、ワリナカリケル事ニ語伝ヘ侍リ。」

・・花の下連歌のよく云われる説話だが、ウスクレナヰはウスベニのこと。薄紅色の感性は今の恋歌でもよく目立つ。ハナミズキの一青窈、timeaftertimeの倉木マイ。

ウスクレナヰニナレルソラカナ ・・この後が付けがたい。アマトブヤと飛躍飛翔に転じてイナオセ鳥の古今伝授にもってきたのは、機転の妙。


渡月橋の倉木マイは、カラクレナイと朱の転じを勁く歌った。



花の下連歌でしょう。うれしきものは。

・・芭蕉に園女あり。この度会園女は伊勢山田の人で、芭蕉に私淑した俳人です。芭蕉は、逝去の半月ほど前に、大坂で園女に招かれ「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」と詠んでいます。宝永二年(1705)には、園女、江戸に出て富岡八幡宮の前で眼科医を開いていました。歌仙桜という三十六本の桜を八幡宮へ寄進しました。この桜、今は存在しませんが、八幡宮の花見の名所であったといいます。安政3年には成田山不動明王とともに園女ゆかりの歌仙桜もみて歩いたと推察されます。花曇の句を詠んだ光前寺も枝垂れ桜がみごとといいますから、不動明王-八幡宮歌仙桜-園女、不動明王-光前寺花曇の句-山田よし女という二つのスポットが二重写しにみえたのでしょうか。
因みに富岡八幡宮の位置は、東京都江東区富岡一丁目20番3号 北緯35度40分19秒
東経139度47分58.6秒
この同緯度線をたどって西へゆくと、伊那谷は駒ヶ根をすこし下った飯島の与田切川の渓流にぶつかります。
 

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