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(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年12月16日(土)22時25分22秒
編集済
  ・・「三つ数えろ」という映画を観た。ハワードホークス作品、ハンフリーボガード+ローレンバコール競演、ハードボイルドの傑作という。この年でフィクションの映画というのは、きつい。が、シネマはノスタルジー以外のものでない。1946年アメリカ。原題はTHE BIG SLEEP(大いなる眠り)。この原題謎ですね。

主演のマーロウが煙草を吸うのが、この時代の男のスタイルだったか、裕次郎なんかもヘビースモーカーだったし、団塊の世代のシニアは特に煙草はやめられないだろう。

Wフォークナーが脚本に参加してるという。前半からプロットが難解で、後半になってもさらにむずかしい。というか、あまり深く追求したくないというのがある。どうせフィクションだからね。マーロウとビビアン(ボガードとバコール)が物語の筋から外れて心情を吐露してゆくのが、これもフィクションなんだろうけど、おもしろい。恐喝、ゆすり、殺人。犯罪が錯綜してるのは社会の常だが、ここに正義ではなく生の義の筋を通すのが訴える。ブラックスクリーンでドンパチやってると、うまい演出か、要は薮の中のプロット。誰が生き残るかというのはわからない。これもフィクションですよ。にしても、うまい!

・・上伊那の郷土誌「伊那路」が届いた。メールで注文して日数がかかるという話だが、中一日で届いたというのは、おどろき。「井月カレンダー」というのも一緒で、これは駒ヶ根の宮澤さんからの贈り物か。「伊那路」は井月特集号で、さっそくパラパラと斜め読み。どの記事も心がこもってよく読める。さすが郷土誌ならでは。下手な記事は書けない。先に矢羽先生の示唆で郷土誌「長野」というのも注文したが、これも充実していた。郷土というのは、よそ者はなかなか参入しがたいものがある。井月の伊那谷は苦渋の漂泊だったはずだが、ここまで復活するとは、本人もノーアイデアであったろう。1858年頃伊那にあらわれ1887年に没して、本年2017年まで160年間ほどずっと正体不明の出身だった。
幻の井月。


 
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年12月13日(水)00時21分16秒
編集済
  ・・寒波がきつい。国文学研究資料館までポタリングにでた。風は無く小春日和かも。東青梅にある石神社に寄ってみた。河辺からの多摩川に臨んだ崖の端にある小さな社。安産の神を祀る。二俣尾にある石神社とここの二つ。西は、甲斐、信濃、尾張、伊勢までという。猿田彦の白鬚と同じ流れのようにもみえるが。近江の石山寺は寺でも猿田彦の発祥だったと記憶する。なにかありそう。

「かきね塚」潮堂編 羽田墨芳七年追善 慶応元年。(1865)

これに井月の句があるという。果たして見つかるか?立川の資料館もフロントの係が毎度替っていて、前回は新人の素人。検索の上手がいると助かる。半ばあきらめていた資料だが、マイクロフィルムから紙焼きにしたものがあるという。驚きの一瞬。

枯柳軒にさびたる碇かな 井月

松宇文庫というのに収められてある。伊藤松宇という幕末から明治にかけて、俳句も詠むが古文書を蒐集した。子規などの先駆けという。寄贈した古文書3千冊は関口芭蕉庵にあったが、やがて国文学研究資料館のマイクロフィルムで保存。この資料館も奥が深い。

・・訪ねた時は、「伊勢物語のかがやき-鉄心斎文庫の世界」という特別展示があった。充実したコレクションのようだが、暇がとれずそれでもざっと見て廻る。細川幽斎と烏丸光広の書とか、幽斎は達筆。日野資矩の書もある。絵屏風の展示もあって、絢爛たるものあり。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年12月11日(月)19時03分54秒
編集済
  春夜宴桃李園序
            李白

夫天地者,萬物之逆旅;
光陰者,百代之過客。
而浮生若夢,
爲歡幾何?
古人秉燭夜遊,
良有以也。
況陽春召我以煙景,
大塊假我以文章。
會桃李之芳園,
序天倫之樂事。
群季俊秀,皆爲惠連。
吾人詠歌,獨慚康樂。
幽賞未已,
高談轉清。
開瓊筵以坐華,
飛羽觴而醉月。
不有佳作,
何伸雅懷?
如詩不成,
罰依金谷酒數。

「而浮生若夢,
爲歡幾何?
古人秉燭夜遊,」

・・夜遊びのススメ

・・


雪花飛暖融香頰。頰香融暖飛花雪。欺雪任單衣。衣單任雪欺。



    花褪殘紅青杏小,
    燕子飛時,
    綠水人家繞。
    枝上柳綿吹又少,
    天涯何處無芳草。

    墻裏秋千墻外道,
    墻外行人,
    墻裏佳人笑。
    笑漸不聞聲漸杳,
    多情却被無情惱。


 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年12月 5日(火)20時47分43秒
編集済
  ・・青梅郷土博物館でめずらしい展示があった。

>玉泉寺から西側の地域は寺改戸遺跡という縄文時代の遺跡です。昭和49(1974)年、下奥多摩橋の取り付け道路の敷地内を調査し、20か所分に及ぶ土壙どこう(お墓)が見つかりました。その内の9号土壙の東端から副葬品と思われる、注口土器と小形深鉢形土器が隣り合って出土しました。

縄文後期(B.C1500頃)加曾利B1.式

・・注口土器の高さは12cm、最大幅12cm、口径5・6cm、底径6・8cm、容量410mlで、蓋ふたはありません。小形深鉢形土器は口縁部内側に一条の沈線が引かれており、高さ6・3cm、口径9・4cm、底径7cm、容量230mlです。


蘭陵美酒鬱金香,
玉碗盛來琥珀光。
但使主人能醉客,
不知何處是他鄕。


 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年12月 2日(土)00時10分1秒
編集済
  ・・多摩川の寒天河原にでてみた。十月の台風で川筋が大きく蛇行してしまい広い石の原ができていた。かつては水底だったところだ。対岸には岩肌がみえて木々の紅葉は一段と映えている。今が旬か。釣り人がひとりいてすこし話をした。青梅の釣り事情を尋ねた。ヤマメ、イワナが捕れるという。アユは冬はいない。普通海に帰るのだが、多摩川はいくつか堰があって羽村まで海からの遡上は限界という。この辺にいるのは放流魚です。ルアー(疑似餌)をやるというので一揃いみせてもらった。いろいろあって魚はこういう金属片に騙されて釣らされてしまうんだ。釣りのクロウトさんは細かなルアーの差異がわかるらしい。貴重なものもあるという。・・多摩川にはカジカも釣れる。カジカはカエルではないのですか?いえ魚です。カジカのひれ酒というのがあってこれは絶品だそうだ。フグのひれ酒は先日試してみた。カジカというのはなかなか釣れないそうだ。料理屋でもだせないしろもの。

武陵源、武陵桃源

>・・武陵源(ぶりょうげん)は、湖南省張家界市にある、張家界森林公園、索渓谷自然保護区、天子山自然保護区などの地域からなる自然保護区の総称。・・武陵源は、その独特の石の柱が立ち並んでいる景観で知られる。その柱は珪岩で出来ており、二酸化珪素の含有率はおおよそ75%-95%である。その石柱のほとんどが200m以上あり、

張家界市

>・・湖南省の北西部に位置する。常徳市、懐化市、湘西トゥチャ族ミャオ族自治州、湖北省と接する。洞庭湖へ向かう澧水が流れる。・・武陵山脈にある張家界は険しい峰が連なるカルスト地形の奇観で知られ、

澧水(れいすい)

>・・湖南省北西部を流れる大きな川で、洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流。・・澧水の上流には、南、中、北の三つの源流がある。北の源流が本流であり、湖南省桑植県の杉木界に発する。中の源流は同じく桑植県の八大公山の東麓に発する。南の源流は湖南省永順県の龍家寨に発する。三つの川は桑植県南岔で合流後、東へ流れる。途中で漊水、渫水、道水、涔水などの支流を合わせ、津市市の小渡囗で洞庭湖に注いでいる。

洞庭湖

>・・洞庭湖(どうていこ、拼音: Dòngtíng hú ドンティンフー)は、湖南省北東部にある淡水湖。中国の淡水湖としては鄱陽湖に次いで2番目に大きい。全体的に浅く、長江と連なっていて、その大量の水の受け皿となっており、季節ごとにその大きさが変わる。湖北省と湖南省はこの湖の北と南にあることからその名が付いた。・・7月から9月にかけて長江から大量の水が流れ込み、湖の面積が広がる。通常期の湖の面積は2,820km?(琵琶湖の約4倍)だが、長江から膨大な量の水と堆積物の流入によって増水期は20,000km?(関東平野や四国よりも広い面積)にも及ぶ広さになるという。洞庭湖に流入する河川には、湖南省四大河川といわれる湘江・資江・沅江(げんこう)・澧水(れいすい)などがある。


 桃花源-澧水-洞庭湖-長江

・・桃花源の大まかな位置がわかる。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年11月15日(水)17時15分3秒
編集済
  「・・武蔵夜話に出で居候は 秩父大宮の南なる日野村の棒の神は 神體石棒同熱川村猪狩山の麓なる下池の熊野社も石棒が神體なり 相州大山石尊大権現の神體は石棒三尺五寸程のものにて 此石剣に因み木太刀を納るものゝよしに候甲斐北巨摩郡武田八幡の神體も石剣と承り申候 諸国に此類多く 小生甲斐に居り候砌道祖神を調べ候に 何れも石の棒又は圓き石に御座候ひき 此等にて愚考はオシャモジ様は石神様のことゝ存じ居候 」(山中笑より柳田へ)

「武蔵では東秋留の二宮神社の境内に、今もまだ一座の社宮司社の残つて居ることを、この春の散歩の日に見つけて来た。付近の人たちはオシャモジ様と呼び、やはり飯杓子を上げて嬰児の安全を祷つて居る。・・」 『石神問答』序

・・五日市いまはあきるの市というここの三大祭。阿岐留神社、岩走神社、二宮神社の祭りだ。柳田国男『石神問答』序文にみえる東秋留の二宮神社を訪ねた。


   *

・・2017年度の多摩川を遡上したアユの推定値は、158万匹。昭和60年前後は1万匹以下、平成に入って徐々に増え始め、平成20年頃には200万匹近く、平成23年には劇的に増加して800万匹、翌平成24年に1200万匹に増え、その後やや減ってはきたが5~600万匹、本年は例年平均の173万匹をやや下回るものの158万匹が遡上した。・・六月頃、多摩川青梅の万年橋の上から小アユの大きな群れを確認できた。

・・東秋留近辺の縄文遺跡からサケの骨が数千本発掘出土した記録があるとのこと。これは近くの秋川にいたサケを縄文人が捕らえて食用にしていた証しとなり、全国ではじめて縄文人のサケの捕獲が確認されたという。アユは食料にしても骨は残らないでしょう。それにしても秋川にサケというのは、気温が低かったのでしょうか。

   *

・・瀬音の湯は日に日に評判がよいか。訪れの度に都の騒ぎになる。サウナ室にきれいな音楽が流れていた。ピアノソロだが、曲名はわからぬ。たぶんバッハであろう。・・隣りの外人に曲名を聞いたら、maybeというた。一言くらいは野暮にはならぬ。

・・翁、北枝の山中問答には、「蕉門正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺馬鹿の言語になづむべからず。天地を右にし、万物山川草木人倫の本情を忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。其姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変に渡る。・・云々」

翁申給ひき。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年11月12日(日)10時26分44秒
編集済
  ・・檜原村北秋川に沿って秘境神戸岩をめざした。例によって青梅は梅ケ谷峠をこえて日の出あきるの市に入る。このコースすっかり気に入っている。しかし心なし車がよく来る。この峠にトンネルをつくる計画があるという。二ツ塚峠を越える交通を少しでも緩和させる為だろうか。梅ケ谷は二段坂で最初はギアで軽くしても二段目は足着きになるが問題なし。足着きというのは周囲の風景よく見えてよいところもある。中曽根がレーガンを招いた山小屋はすぐこの奥だ。それでここも一躍名をなしたか。安倍がトランプと廻ったのは霞が関カントリー倶楽部でここは川越だったと思う。業平が武蔵野で訪ねた土地だ。川越は江戸の天海が根を張って古くよい料理屋もあるからおもてなしで撰んだのだろう。しかし何でもイエスマンをやってるのはどうか。日本は軍備国家まっしぐらではないか。

・・梅が谷を越えて日の出に入ったあたり静かな山里で桃源の感あり。そうこうしてるうち五日市の駅前に出た。山猫軒という喫茶はサイクリストがよく立寄るという。朝早くで閉まってる。檜原街道を瀬音の湯を越えてまっすぐ村役場のある橘橋ところまで。意外と距離あり。檜原街道はサイクリストが多い。車もライダーも多いのは紅葉期の休日だからか。ともかく自転車乗りはしきりにやって来る。ロードバイクの乗り手に何度も追い越される。橘橋は大月の渡来系の猿橋と同じつくりだと聞いていたが昔の面影はなく普通の橋だ。このT字路で左折をすれば数馬の方、右折なら払沢の滝と神戸岩の方面。今日は右折して神戸岩をめざした。払沢の滝の入口にあるちとせ屋という豆腐店も評判だ。おからドーナツというの帰りがけ試したが、大変に美味。涕がでそうなほど。・・神戸岩入口というところのバス停で右折3キロ。北秋川に沿ってだんだらの登りスロープになる。車はまったく少ない。

・・春日神社のあるところへ来た。落葉掃きをしてる人と少し話す。この辺どんどん過疎になってね。よいところだけど街中にでるは大変。川辺でキャンプか釣りか神戸岩観光くらいで人が集まる。紅葉の季節でそれでも客は多くはない。そこそこ。パワースポットのトンネルがあるとか。・・着いてみるとなるほどすごい岩場と水の流れだ。見物客も数名。切り立った岩はチャート石でジュラ紀のもの。恐竜時代ではないか。チャートは海底の有機物の堆積でできるからぐっと海底からせりあがったものか。ジュラ紀というと一億五千万年以上昔になる。・・プレートの移動によるらしい。

・・神戸岩トンネルの前に駐輪して峡谷に沿って散策道がある。足場があやういがチャレンジしない手はない。増水のため侵入禁止とあっても先に客がみえる。木橋があってしかし微妙な傾斜、隣りの岩場を選んだ。足を伸ばして手が鉄杭に届けば向こう岸に着く。岩場の足が滑らないことを祈って渡る。峡谷の道あぶないのはここだけ。変化に富んだ水の流れと岩の形状を楽しみながら歩く。途中で会った客はこの向こう口から入ったという。神戸岩はこの水流からずっと上に切り立った山の壁をつくる。チャート石で天然記念物ということだ。

・・神戸岩トンネルは手掘りという。ほんの百メートルくらいだが中で曲がっていて真っ暗になる。ここで恐れをなして引き返した人もいたようだ。どうということはない。自転車のあるところにもどって崖の上方をみた。朱蒙の山城ボンゴ城みたいだが、上にまであがれるのだろうか。神戸岩は「かのといわ」と読む。大岳山の入口にあたるという。

・・五日市は化石の宝庫。チャートや石灰岩の中に海ユリ、サンゴなどの化石がみられる。五日市郷土館に帰り寄ってみた。チャートと石灰岩では地層年代どちらが古いのか気になって調べたが、石灰岩は古生代からあるという。フズリナの死骸からできるという。チャートは珪藻とか植物性プランクトン(?)の堆積からできるか。ある種の水晶で硬質なものだ。プレートの移動で地表にせりあがったもの。生成はジュラ紀か。・・明確な線引きはできないが、どちらも古い。

ジュラ紀は一億4千万年前~二億一千2百年前、三畳紀は二億一千2百年前~二億4千7百年前。エントモノチスという二枚貝は三畳紀にだけ栄えたという。この化石は日の出町の砂岩によくみられるという。ともかく古い。

  *

・・武蔵五日市の駅から五日市街道をくだる。右手に秋川に沿って、しかしこの道はあまりおもしろくない。大悲願寺や岩走神社のあるところから線路側の側道に移る。この田園風景はまことに絶品。伊奈、横沢地区といって信州高遠からやってきた石工の部落だった。この伊奈の石工について郷土館で貴重な資料をいただいた。正一位岩走神社というのは奥が深い。三ヶ島葭子の母方はここのものだ。

 筏組む木の音冴えて水ませるあさけのたにに鶯の鳴く





 

(無題)

 投稿者:かぐ山のはなこ  投稿日:2017年11月 9日(木)20時27分52秒
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  ・・「芭蕉」「定家」「楊貴妃」「玉葛」「小塩」「雨月」

このうち「小塩」というのに注目。小塩山というのは山城の乙訓にある。大原野神社は桓武長岡京に春日神社を呼んだ。


シテ「霞か。ワキ「雲
か。シテ「八重。ワキ「九重の。地歌「都辺は。
なべて錦となりにけり。/\。桜を織らぬ
人し無き。花衣着にけりな。時も日も月
もやよひ。あひにあう眺かな。げにや大原
や。小塩の山も今日こそは神代も思ひ。

・・
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年11月 2日(木)22時34分9秒
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  ・・自転車遠出さきのパンクというのにはじめてあった。いや二度目だが最初のはやや近場。今度のは出先で修繕しないと帰れない。遠くの温泉に来ていたが意地の悪いヤツがいるものだ。駐輪中、周到にタイヤに針ピンを刺してパンクにした。パンク用にピンを細工してあってこれは単なる悪戯でない。プロの工作員だ。・・このパンクの背景を想像したが今はこれを修繕するのが先決。幸いに不慮の事故のために替チューブと修理セットを持ち歩いている。果たしてうまくいくか。人家の多い街中なので自転車店も探せばみつかるかもだが、何のためのロングライドか。修理場をさがした。公共の博物館があって駐輪場はがら空きだった。よしここを借りる。・・自転車の解体組立てを何度かやっていて後輪のタイヤ外しはなんとかだ。近頃ママチャリのパンク修理は何度かやっていて、ただし出先でやるのははじめて。焦ってしまいタイヤの中のチューブがうまくとりだせない。ここでまた取り返しのつかないミス修理をすると最悪なので、気を落ち着かせ替チューブに交換するとこまではいった。ただしこのチューブ大丈夫か。これも一度穴が開いてパッチを貼っておいたものだ。このパッチ貼り実は自分はあまりうまくない。ほんのすこし空気もれがあった。携帯の空気入れも使い方が不慣れで故障でもしたら。ともかく帰宅まで持つように慎重に。・・取り出したパンクチューブ実は捩れたままタイヤに入っていた。道理で空気抜けがはやい。以前タイヤ交換した時に失敗していたものだ。その後けっこうな遠乗りをやっているからよく事故らなかったものだ。今回のパンク修理のおかげでチューブ装填もいい加減にできないとわかった。最近ママチャリのパンクが何度も起るのでよく考えたらタイヤに針のようなものが残っていてこれでは同じ所に穴が開く。これを外したら空気抜けはなくなった。どうも細部の点検が勉強不足。・・帰りに寄ってみたいところがあったが全部キャンセル。もう一度パンクするといよいよ修繕がきかない。暗くなるまでに帰りたい。

・・で、無事に帰宅できた。後輪のタイヤ心なし空気が減っている。やはり不具合ありか。翌日タイヤ外してチューブを調べると以前のパッチ貼りから空気もれあり。あぶないあぶない。穴あき箇所に大きめにサンドペーパーをかけ接着剤をぬる。この辺がどうも下手でした。

まったくパンク修理に日々明け暮れた。

・・

青梅から多摩川に沿って奥多摩にゆく。鉄路の奥多摩駅の近くに奥氷川神社、ここから青梅街道直進ならば昔道などある奥多摩湖まで。支流の日原川に沿って北へ向えばいつか訪ねた日原鍾乳洞がある。細く長い道で秘境といわれたが、自転車での走りはさほどむずかしくはない。ずっと行くと最後に長いトンネルがあってここを抜ければ鍾乳洞のあるところに着く。渓流は石灰のある地質をくぐるからか透明できらきらしてる。記憶だけだが、一石山という神社だか寺があった。ここは役の行者が700年に開いたという神社らしい。案内板に江戸の僧正天海の名がでてきたので、こんな奥田舎に何故天海か。先日訪ねた如来寺の木食担唱の名もあったようだがすっかり忘れていた。というより担唱のことも知らなかったので記憶に残るはずもない。・・しかし驚くべきことに木食担唱はこの一石山に篭もって修行の道場としている。



 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年10月13日(金)10時42分17秒
編集済
  ・・お天気は都心は11、12日がホワイトボックスで晴れマーク。サイクルツーリングに出た。多摩川CRで国立まではお手の物。この先甲州街道は車道は難関。府中大国魂神社から旧甲州街道に入ればずっと楽な道になる。調布に出るに何度か使った道だ。途中早めに本道へ出たので地獄の甲州街道は歩道を走る。つつじが丘明大前まではこの道しかない。代田橋から井頭通りに入り渋谷へ向うコースを予定したが交番の案内で変更。笹塚までいってここから中野通りを右折あとは道なりで駒場日本近代文学館に行ける。・・近くまでいったがこのあたり入り組んでいて迷路の様。東大駒場のすぐ近くに文学館はあった。「漱石・芥川・太宰から現代作家まで」特別展示開催のはず。芥川を看取った下島勲の日記が見たかった。辞世の短冊句も展示があり、「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の解説文で「水洟や」とあるので担当学芸員を呼んでもらい「洟」→「涕」に訂正を強く要請。若い女性でしたが説得できた模様。この評論は未発表だが自信はある。

・・この後は一路浅草に向う。一度甲州街道にもどり新宿駅に向った。例によって人混みも車も多く何度か足着き歩行になる。青梅街道から靖国通りで飯田橋交差点までそこから春日通りに出ればまっすぐ湯島天神のわきを通って隅田川は吾妻橋に出るはず。

・・前回見つけられなかった新吉原の跡地。今の吉原とは場所も違うのか、ともかく吉原神社を探してみた。大正の震災の時、川端康成と芥川が被災の様子をみてまわったという。火事になって悲惨な遊女たちがたくさんいた。吉原神社奥の院というところにでた。ここに記憶がいっぱいあった。

吉原大門通りの大門を確認したかったが、昼間から客引きがあって冷やかしのヒマもなくそそくさとここを去り、言問橋のあるところに向った。川向こうの長命寺を探した。「いさゝらは雪見にころふ所まて」芭蕉雪見の句というのはめずらしい。春秋庵九世梅笠の墓もあるというので探したがみつからず。
寺のお内儀に尋ねたところ、過去帳にはたしかにあるそうででも墓はみつからない。以前にも梅笠を訪ねてきた人がいたとのこと。梅笠を追うというのは、自分以外にも存在するというのは、発見ですこし張りもでてきた。過去帳にあるなら本名もわかるかもしれないと思ったが、もう次の訪問地要津寺に向っていた。

・・両国駅の裏の回向院。その脇道から南へ、墨田区千歳二丁目。要津寺はなんなく見つけられた。元禄の頃、将軍綱吉の側用人だった牧野成貞が中興開基。「父の儀成は、越後長岡藩主・牧野忠成の弟で、上野大胡藩主・牧野康成の三男であった」。牧野成貞の側用人跡目が柳沢吉保という。笠間藩牧野家の菩提寺というので代々の墓が今でも営まれている。井月は仕事柄ここに立ち寄っているはずである。・・要津寺が井月にとっても自分にとっても注目に値するのは、ここに置かれた雪中庵石碑群というもの。
「・・雪中庵とは芭蕉三哲の1人である服部嵐雪(1654-1707)の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781-1789)の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。」
これらの石碑、「芭蕉翁俤塚」碑、嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔はよく認められますが、他はよくわからない。写真のススキに埋もれているのが蓼太の墓碑かと見える。住職さんがたまたまみえて一般の墓地には進入禁止ということでした。牧野家の墓はそれでも一目とお願いしほんとに一目で頭を下げて参ったのです。長命寺でも墓地に仕切りをつけて一般人は入れないような仕組みがよく見かけられます。千社参りというのが嫌われているようですね。

芭蕉翁俤塚(おもかげづか)

宝暦13年(1763年)10月12日、大島蓼太が芭蕉翁七十回忌に建立

「みかの月 弓矢のともに すてし身を 草の庵に ふししはの むすひし夢に はゝきゝのありとは見えす あさかほの しほめる花の まほろしを とくうつしゑの ふてとけし その翁さへ なくそちの(本ノマゝ) おもかけ塚を したはさらめや」

・・何度読んでも、意味イメージが錯綜する。

ほかに「古池や」の句碑もあるということだったが、すっかり動顛してしまい確認できず。そそくさと近くの長慶寺に向った。住所を控え忘れたため、地図の記しを頼りに人に聞き聞き、あきらめかけたところで所在がわかった。ここもいろいろ碑がある。芭蕉時雨塚というのが、謂れ古い。「元禄七戌十月十二日はせを浪花にて卒せしを聞て江戸の門人杉風・其角・嵐雪・史邦等翁之落歯并発句を埋めり、其句に、世にふるも更に宗祇の舎り哉」とあり、芭蕉が没した元禄7年(1694年)10月12日の2ヶ月後に芭蕉の門人たちが芭蕉を偲んで、句塚を建てた 」ただし戦災などで碑の痕跡はほとんど認められない。其角、嵐雪の墓もあったが、これは近年に再建されたものか。由緒ある碑蹟だが、なんとも埋もれた風。管理がだんだん手薄になる気もする。

・・清澄庭園の隣にある雄松院に斯波園女の墓がある。ここはどういうわけか大変に清潔な管理がみえる。
「白菊の目にたてゝみる塵もなし」死の数日前に翁が詠んだ。

・・

さて今日のラスト。深川不動堂、富岡八幡宮に向った。芭蕉庵のあったのは深川常盤、同じ深川でも不動堂まではすこし離れている。去年も一度訪ねたが、ほんの寄っただけだった。富岡八幡の前で園女が眼科医を開いていたなど知らなかった。公園に歌仙桜の碑があるという。いまはただの公園だが昔は三
十六本の桜が人を集めたという。芭蕉没後、園女は江戸にでて其角を頼った。其角の住居は日本橋茅場町というので、いまはぽつんと住居跡の碑がある。これも後で訪ねてみた。其角の庵の隣りに荻生徂徠が住んでいたというから、なんともにぎやかなこと。「梅が香や隣は荻生惣右衛門」と其角は詠んだ。

・・不動堂は、たいへんな人気で人混みも多い。案内所で成田山出開帳の記録資料を求めた。なんとうれしいことに「深川不動堂関連年表」の写しをいただいた。ここの不動像の由来とか、秘仏でもご覧になれますよというので、本堂へいってみたら、たしかに不動像が垣間見えた。日野高幡不動を先日拝観したが、それと違って烏天狗のような迫力がある。

二日目。自転車で遠出して温泉に行くのが常だったが、今回はあわただしい。永代通りから日比谷通り、三田の聖坂に向った。途中増上寺は浄土宗の大本山という。江戸の徳川はたしか浄土宗であったと思う。朝早すぎて外から眺めるだけ。甲賀流忍術の検定など告知があったが、?よくわからない。

・・三田の聖坂は、途中、小さな亀塚稲荷神社がある。ここには港区最古の板碑が五基集められいる。「阿弥陀信仰に基づく供養石塔で秩父青石(緑泥片岩)製」という、「5基のうち3基については鎌倉時代中期から南北朝時代前期にかけての、文永3年(1266年)、正和2年(1313年)、延文6年(1361年)の年紀銘が確認できる・・新田義貞一族の霊を弔うための碑だと伝えられている。」
この稲荷のご神体は、坂の上にある亀塚公園にあった更級日記ゆかりの亀石ということだが、確認はむずかしかった。

・・さて、どこかで見た桜の写真。えもいわれぬ桜の花。たしか乙女桜というので来福寺で検索。ここは大島蓼太の「世の中は三日見ぬ間の桜かな」句碑がある。延命桜というのが売りだそうだ。これかな?隅田河畔の長命寺も桜で名高い。菓子屋があってここがはじめの桜餅屋とか。一葉「たけくらべ」の美登利もこの辺の娘だったとか。記憶が錯綜している。

・・品川歴史館を訪ねた。第一京浜15号から品川、大井一帯は錯綜して迷路の様。区立歴史館というので、大森貝塚とか東海道品川宿とか特別展示あるも眼目は「大井に大仏がやってきた!」過去の展示カタログがみたい。高輪にあった如来寺がこの大井に移った。木食坦唱の五智如来像がみれるのは、この先の養玉院如来寺。歴史館では、品川のこと根堀葉堀学芸員に尋ねた。安政の地震や大洪水のこと。海に近いのに被害はほとんど報告されていない。特に1856年の大洪水で江戸10万人の死者が出たなど、嘘くさい。前年の大地震で死者7千余人というのは深川不動堂の記録にある。大地震では、浅草深川一帯は大打撃だったのは、真実らしい。大井大仏展のカタログはなかなか充実している。

・・歴史館の前は池上通り。すぐ前に交番があった。ここで養玉院に行く道を尋ねる。やはり迷路のようで、一度大井の駅まで出るルートを教えてくれた。目的地への道がわからなくなると片端から人に聞くのが癖になってきたが、これもコツがあってうまくなったものだ。ほどなく念願の養玉院如来寺に着いた。

・・木食坦唱の五智如来像といっても、寛永13年(1636)に品川高輪に安置されたものが、度重なる江戸の火事で一度は焼失している。代々の木食僧が1760年頃再造立したもの。京都の蓮華寺にあるものは石造の五智如来だからこちらは坦唱上人のものだろう。養玉院と如来寺はもともと別の物だった。一つになったのは大正年間のこと。如来寺については天海が強力に坦唱を支援したようだ。ここがおもしろい。
 

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