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(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月25日(木)11時32分58秒
編集済
  ・・渡月橋の子はなんだ同郷だな。娘か。曲は借りるが詩はすべて自作という。R&Bというのが基調らしい。bluesとは愁いだな。perfect orangeを知ってる女流はすべて成功。(わたしが言うのだ、間違いない)

なにかの廻り合わせ。この橋の近くからはじめよう。


・・江戸深川の臨川寺。芭蕉と仏頂和尚が出会った頃はまだ寺号はなくただの草庵だった。臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺というのが正式な呼称という。・・伊賀から東上した俳諧師と臨済の禅坊主がはじめて交わした問答が今でもよく知られている。

仏頂 「梅子熟せりや」
芭蕉 「桃の青きが如し」

・・

およそ俳人の起点と結点はここに集約されるとみる。

京右京区嵐山桂川にかかる渡月橋。「くまなき月の渡るに似る」というキャッチフレーズがそのまま渡月橋の名になった。このフレーズ、イメージがむずかしくないか。橋は人が渡るものだと思うが、月が渡るとは。月がではない、月の渡る。・・橋の上で観月をしたら(亀山上皇が)橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」とみた。やはり月が渡るようです。現代人は忙しいから、橋の上で月の移動を眺める時間をもたない。上皇が観月をしたというのでなく、月を観ながらゆっくり橋を渡る。月をそのまま眺めていると月の移動に見える。そういうことでしょう。・・人が渡るのか月が渡るのか。妙。

・・渡月橋を右京へ渡り、川に沿って少し下ると京の臨川寺がある。臨済宗天竜寺派霊亀山臨川寺というのが正式な呼称。後醍醐天皇開基、開山は夢窓疎石1335年。疎石入寂もこの寺。渡月橋を渡って北に上がると臨済宗天竜寺派大本山、霊亀山天龍資聖禅寺(天龍寺)がみつけられる。開基は足利尊氏、開山は夢窓疎石1345年。天龍寺は京都五山一位といわれる。



 
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月21日(日)14時12分14秒
編集済
  ・・中氷川神社を訪ねる途中瑞穂箱根ヶ崎にある狭山が池に寄りました。この池武蔵野の歌枕だそうでいくつか歌に詠まれています。

武蔵なる狭山が池のみくりこそひけばたえすれわれやたえする 「古今六帖」
踏み分けし狭山は雪に跡絶えて池のみくりは来る人もなし  藤原季能
氷ゐし汀の枯野踏み分て行は狭山が池の朝風   尭恵「北国紀行」

・・大坂にも狭山池というのがありそちらの方が由緒深くもあるが、武蔵野の狭山池もたしかに歌に詠まれる。

「狭山の池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるらん。」「枕草子」

・・この「みくり」だが「三稜草」という植物で浅い沼や池によく生えるという。わたしが訪れた時の狭山池には菖蒲草が黄色い花を咲かせていた。「みくり」というのも在ったかも知れぬ。花言葉は「恋の傷み」。


枕草子で憶い出した。清少納言は、東国など歩いてもいず歌から想像して狭山池をいう。これは断じて大坂の溜池ではないでしょう。陸奥に流れた藤原実方をよくみていた。

 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月20日(土)20時16分6秒
  山城の松からも透く初日哉

・・まり様。約束の京「山城」の解読ですが、その前に所沢中氷川神社を訪ねてみました。わたしの処から自転車で楽勝の位置です。氷川神社というのは多くあり、その中一ノ宮は大宮氷川神社。中氷川神社は所沢に二つ、奥氷川神社というのはなんと多摩川上流の奥多摩駅の近くにあります。所沢の中氷川は以前訪ねた時は山口にある神社できょう訪ねた三ヶ島の神社は、早稲田大学所沢キャンパスのほぼ隣にあります。狭山湖に沿ったあたりです。狭山湖、多摩湖に沿った森がトトロの森というようです。

・・倉木マイ「幕張メッセライブ2009」という動画をみてテンション強くすこし感動です。京都がわたしの原点といって渡月橋の詩を歌っているけど、アニメ探偵コナンのテーマ曲ようです。8年前はポップロックというやわな体でパンチが利いてますから、元気でますね。

・・ロックンロールの原点はスサノオの八岐大蛇退治だと認識してますから、フリや感性の質も出雲のスサノオと重ねてみてしまいます。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月19日(金)21時30分59秒
  くまなき月の渡るに似る

・・嵐山にある虚空蔵法輪寺を訪ねたら渡月橋を渡りけして振返ってはならぬ。愛しい人に会うためにたえず月をみて橋を渡りつづけるように。倉木麻衣の新曲「渡月橋 君想ふ」はそういう恋歌をピュアに歌うものらしい。虚空蔵云々は知らなくてもよい。

十三詣りというから男女の知恵はこの橋からはじまるということか。十三歳の恋の感性が呼び起こされている。(かなり話題になってヒットしてるようだ)

・・渡月橋で憶い出した。青梅の奥多摩にも同じ様な橋がたしかあった。いろいろ探したが記憶違いで橋の名は「数馬峡橋」という。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月14日(日)18時50分41秒
編集済
  ・・差出の磯の脇から笛吹川に沿って雁坂道を塩山方面へ。そのまま行けば峠を越えて秩父に入る。秩父から山梨に入る幻の道。長いトンネルや有料道路がありサイクリストは滅多に走れない。知人のイギリス人が走ったとは聞いている。幻とは自分にとってのこと。・・隼の交差点という笛吹川を渡ったところで右折南に折れる。すぐに恵林寺がある。武田の菩提寺で信玄公の墓がある。塩山でまずここを訪ねたい。ケイリンジと読んだらエリンジですと言われた。臨済宗妙心寺派の禅寺で、開基は夢窓疎石。はじめは円覚寺派という。・・この妙心寺派というのに拘りたい。甲斐大和の栖雲寺は臨済宗建長寺派だが、開基の業海本浄は幻住派と呼ばれる。同じ臨済でもアンチ夢窓疎石であったという。

・・芭蕉が江戸深川で禅に師事した仏頂和尚は臨済宗妙心寺派であった。

* 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。
                 wikiより

・・創建年は暦応5年(1342)というから、そう古くもない。「平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。・・法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。

・・「南朝の後醍醐天皇は延元4年(1339年、北朝では暦応2年)に崩御するが、北朝の将軍足利尊氏は敵味方の立場を超え、菩提を弔うために、夢窓疎石の勧めに従って天龍寺創建を決定した・・元々大覚寺統の離宮であった嵯峨野の亀山殿を禅院に改め、夢窓を開山として天龍寺を創建」・・「度重なる夢窓の懇請を受け、暦応4年12月23日(1342年1月30日)直義は夢窓に対し、翌年秋に宋船2艘を渡航させ、交易で得られた利益を天龍寺造営にあてるよう提案」

* 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。開基は足利尊氏、夢窓疎石。創建年1345年。

・・妙心寺と最もつながり深いのは大徳寺。

* 大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立。


・・妙心寺を開山した関山慧玄、「信濃国高井郡の国人領主高梨氏で高梨高家の子とされる。」建治3年(1277年) - 正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日)・・1307年に鎌倉の建長寺に入り、南浦紹明に師事。慧眼の法名を授かり、南浦寂後も鎌倉にあって物外可什、巨山志源などに参禅。その後帰郷。・・建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じ、ここで宗峰妙超(大燈国師)を紹介され、京都大徳寺に遷って宗峰に師事。やがて1329年に雲門の関字の公案で開悟し、宗峰がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名

信濃国高梨氏は、

高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。

南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」という

・・

『汝等請う其の本を務めよ 誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫くんばよし』
 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年 5月14日(日)11時11分57秒
  しほの山さしでの磯にすむ千鳥君が御世をばやちよとそなく

https://www.youtube.com/watch?v=-PXbz9DXn8s
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月13日(土)11時31分25秒
編集済
  ・・甲州で塩山は鬼門ではないですかね。戦国の武田信玄は今でも大人気。風林火山の武士魂は底堅く信奉されているか。塩山といっても塩は採れない。金、水晶がとれるそうだ。勝沼には大善寺といって葡萄寺ともいうやはり行基菩薩由来の寺もある。右手に葡萄を持ち左手で結印した薬師如来は秘仏という。八王子から甲州に入るに大きな峠は二つあり、鉄道なら長いトンネルが二つ。昔の甲州街道は山賊がどこにも潜んでいよう。暗い街道だ。

・・天目山から下って一路笛吹川の差出の磯をめざした。
20号は笹子を抜けてからはダウンスロープで車もさほど多くない。ネットでまったく快適という書き込みをみたが、国道で自転車というのはどうもよくない。ドライバーに酔っ払いがいたらアウト。向こうからすると自転車の方があぶない走りだそうだが。・・笛吹川にぶつかるまで西へ行く。途中交番があっても大方パトロル中。御用の方は電話をとあって、何度かお世話になった。山梨は先々で人と話したが、驚きはその応対のやわらかさ。まず笑顔でこんにちわ。差出の磯はどこですか?これだめですね。差出の磯は知らない人多い。笛吹川の万力公園はどこですか?これは通じる。・・帰路交差点で信号待つに小学生の女子が自転車の停止を確認、下級生のグループの横断を誘導してる。これも驚き。学校教育がよほどよいのがわかる。すこし言葉を交わしたが、信号の確認ではなく人との確認です。・・これも差出の磯で歌碑をみて後でわかった。笛吹川に望む小高い丘から町並みと富士山がよくみえる。「希望と感謝の歌」という碑があった。・・信玄の人気といっても次代の勝頼は一族悲惨な滅びだ。恵林寺には信玄の墓がある。快川国師は織田信長に火をかけられ「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と言葉を残した。・・正確には、「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」とある。


しほの山さしでの磯にすむ千鳥君が御世をばやちよとそなく  詠み人知らず」 古今集

・・古来この歌で差出の磯は名所となっている。ほかに甲斐の盆地では北の山よりの高所から富士がよくみえる。富士見の名所とも。

千鳥もここ差出の磯で名高く、今でも飛び交う。

 コチドリ・イカルチドリ・シロチドリ・イソシギ

いろんな人が差出の磯を詠んでいるが、『廻国雑記』道興は、

「春の色も 今ひとしほの 山なれは 日かけさしての 磯そかすめる」
「はる日かけ さしていそくか しほの山 たるひとけとや うくひすのなく」
「冬の夜の 有明の月も しほの山 さしいてのいそに ちとりなくなり」
「こゑはみな やちよときけは しほの山 いそへのちとり ためしにそなく」
「みつしほの さしてのいそに すむ月は 千世もかきらし 久かたのそら」
「今夜こそ 月もみちけれ しほの山 さしての磯に 雲もかゝらで」

よほど、気に入ったとみえる。


・・武田が風水で読み解いた甲斐の風土を、後、だれが追随しただろう。差出の磯には、芭蕉も訪れがあるというが、たしかな根拠はあるのだろうか。

「闇の夜や巣をまどはして鳴く千鳥」この碑は差出の磯にみられる。千鳥といえばここ差出の磯というイメージが定着しているという。・・チドリは磯の砂にわずかな凹みをつくり卵を産む。そうしたものがいくつもあり、暗くなると帰る巣を見失う。それで鳴くという。

・・甲斐の盆地を見晴らかして思い出した。一年前身延線に沿ってこの盆地を抜けた。出口あたりが富士川河畔の鰍沢。身延に行くのに手一杯でスルーしてしまったが、落語と浮世絵の心霊スポットというのは知らなかった。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月 8日(月)22時09分20秒
編集済
  ・・一日前倒して甲斐大和の天目山輪行に出た。青梅から高尾まで90分は自転車。解体袋詰めで30分。高尾から甲斐大和まで電車で1時間。甲斐大和の駅で自転車の組立で30分。駅から天目山までどれくらいか、かなりの傾斜なはず。・・ざっとプランニングをして出たが未知な部分が多い。ネットでは、笹子で降りて自転車で峠をこえ天目山温泉に寄ったという記事があった。5kmくらいだが一辺倒の上り坂。アゴが出たということだ。

・・天目山へのアップスロープは実はあまり恐くない。恐いのは国道20号。甲州街道だ。以前大月から隣の猿橋まで走ったことがある。自動車専用ハイウェイ様で車もびゅんびゅん。二度と走りたくないと思った。笹子-甲斐大和間はトンネルで、このトンネル数年前に落盤事故があった。自転車でここを抜ける人もいるが、長く暗くとても恐いそうだ。そうでなくても20号はごめんと自ら言い聞かせていた。・・天目山の後この20号で勝沼、塩山に抜ける予定があり、実はこれも大いに気がかりだった。・・変な事故で天命も尽きるかも。

・・自転車乗りで輪行は憶えるとわくわく行動の想像力が大きく激変する。その分いくつもリスクポイントも増えるけど。ここで萎縮する手はない。若いとは想像力の問題です。

・・自ら励ましてなんなく甲斐大和の駅に降り立った。ここ無人駅ですね。

・・組立ては細心の注意。これからのヒルクライムその後の長いライドに耐えうるか。ブレーキが最も要注意。ブレーキ鳴きがするが、これはいい。国道から外れていよいよ天目山へ向う道。行き逢う人に道を聞く。景徳院は近いですけど栖雲寺は山の上です。上り坂が大変ですよ。標高はこのあたりが500くらい、天目山は千mほどですから。地元のものでもよう歩きませんわ。さんざん憐れみをうけたが、自分はこれくらいはどうということない。5kmくらいなら歩いても行ける。笑顔でありがとう。

・・景徳院はほどなく到着。武田氏滅亡は天目山の戦いと呼ばれている。織田徳川の軍勢に追われて栖雲寺まで行こうとしたが、行く手をはばまれこの景徳院で勝頼、北条夫人、信勝はここで自刃。それぞれの辞世の歌が残されている。


黒髪の乱れたる世そはてしなき思ひに消ゆる露の玉の緒
   北条夫人
おほろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端
   勝頼公
仇に見よ誰も嵐の桜花咲きちるほとの春の夜の夢
   信勝公

・・夫人の歌はとりわけ感慨深い。

・・今回の目標はさらに上の天目山栖雲寺。天目山という名称は中国の山に因んだもの。もともとは木賊山(とくさやま)と呼ばれていた。中世の紀行「都のつと」で作者が常陸高岡からここの木賊山まで訪ねて来ている。木賊山というのは、山梨市と秩父の境に2469mの木賊山があるが、「都のつと」の木賊はこちら甲斐大和の天目山のことであろう。常陸高岡というのは、新治郡新治というもう筑波に近い。ヤマトタケルに倣って筑波から甲斐へ武蔵野を横断している趣きだ。・・木賊というのは、世阿彌の謡にもある。様々のこと思い出されて、この天目山にやってきた。

・・天目山簡単に来たようだが、ほんとはきつかった。途中、龍門峡遊歩道に入ってしまいよくよく登ったところで自転車は無理。やむなく引き返してやり直し。観光で売ってる割には客はゼロ。クマの出没注意とまである。・・ひたすらなアップスロープでインナーロウもはじめて試みる。ギアの限界で走るのもはじめて。・・とはいえ足着きして登る。この目標は外せない。

・・栖雲寺は臨済宗建長寺派というが、幻住派というのが正しい。北緯35度39分38.2秒
東経138度48分38.4秒 開基は業海本浄。1318年元に渡り、天目山で中峰明本(普応国師)から印可を受ける。生粋の幻住派だ。帰国20年放浪廻国してこの甲斐木賊山に禅寺を開いた。普応国師木像という貴重なものがあるが、尊像は拝めなかった。ほかに虚空蔵菩薩像というのがあるがこれは十字架捧持マニ像というのが正式な呼名。これは仏画ではなくマニ教の尊像ではないかという逸品。ほかに石庭もみごとなものだ。

・・天目山で武田は二度滅んでいる。勝頼公、夫人、信勝公が自害した1582年。遡ること応永24年(1417)武田氏第13代当主武田信満は足利幕府に追われて木賊山中で自害。この信満公の墓は栖雲寺に見られる。

・・歴史散策、死者と出会う旅みたいになってきた。いろいろあるが、忘れぬうちにこの日の宿のことを書き付ける。天目山温泉は筆舌につくしがたく素晴らしく、下山と恐怖の20号も青息吐息で葡萄の里を抜けた。行きつけの宿は石和で、不思議ミステリーは深夜のテレビだった。チャンネルをいろいろ繰るとやはりバカ番組ばかり。・・と、異星人が出没する不思議なドラマに直面。ウルトラゾーンというシリーズものらしいが、テレビにしては濃厚な脚本。思わず魅きつけられる。ミステリーゾーンとかXファイルといった路線と同じかと思うが、かなりシリアス。人間存在の不確かさ、危うさがまともに伝わる。・・と、次のチャンネルでは竹中直人の出世譚。そういえば竹中直人という芸人がいたな。RCサクセションに大打撃を受けたという。忌野清志郎ですね。高校生の頃からロックしてた。女装して歌う映像があったが、まさにピーク。学生ロックから抜け出るにヤクは使ってないなら、才能だ。竹中直人といえば「無能の人」の映画監督というのも思い出す。未見だがツゲ義春=井月の線を世に知らしめた作品。というか、竹中は井月を知っていたか。こんど会ったら聞いてみたい。「無能の人」に出演依頼をしたとか、忌野清志郎に。ハハ  合掌。
・・つづけてテレビは倉木マイというミュージシャン。この人もよく知らない。舞妓すがたで京都の渡月橋を歩いている。この渡月橋という桂川にかかる橋、嵯峨野、嵐山のあたりでしょう。京都では観光の有名なスポットのようでも自分はよく知らない。倉木マイって、美人ですね。京都の学生時代からシンガーソングライターをやっていた。若い頃の写真はやはり抜群にきれい。今の彼女は精神的な深みがみえる美人。年のとり方がうまい。自分とは好対照。・・山城は井月も訪れている。精神で触れ合うこともあるかなと、すこしうれしくなった。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月 5日(金)18時43分19秒
編集済
  ・・輪行のために、自転車の解体-組立てを予行した。一年もやってないと勘も狂う。ホイールの外しまではなんとか。バラバラになった車輪をフレームにくくりつけて袋に収納するというのがまたしても難しい。どこか違ってるのではないか、ネットでもう一度学習してみよう。・・組立ててほかに狂いはないか。ブレーキが少し変。

・・きょうは組立て自転車の点検で、飯能岩淵の歓喜寺、岩井堂までサイクリング。岩井堂は何度か訪れたが、そこから7百mほど離れた歓喜寺にはまだ訪ねていない。岩井堂は真言宗智山派の歓喜寺のものだ。榧の大樹があるという。五月の連休盛りというのでサイクリストも多い。小曽木街道は田舎の道だが、この日は車も多い。注意力全開で身体に緊張感をみなぎらせるのは、しばらく忘れていた。健康によい。・・体のリズムも若干狂う。

・・ともかく死ぬのはごめんだ。リズム若干の狂いも補正したい。小曽木街道を外れて仏子に向う道は何と言うのだろう。ガソリンスタンドのあるT字路で美杉台団地のほうへ。(団地というとまずいかも)すぐ成木川にかかる橋がある。「みどり橋」という。ここからの川景色は絶品。写真を一枚とった。ここを渡らず右にすこし折れると歓喜寺がある。こういうお寺ほとんど訪ねる人もない。榧の木をしっかり観るのははじめてだ。木質が固そうで碁盤をつくったりする。実から油もとったりするそうだ。墓地のほうから一人来てたまさか話になる。土地の人だというのでどんな話もおもしろい。墓地にハナミズキを植えたが数年で枯れたという。ハナミズキは米国からやってきた。ソメイヨシノと交換という。これも知らなかった。土を入れ替えないと枯れるでしょう。墓の管理のしかた、やはり悩みが多い。
・・こんなマイナーな寺に訪ねる人めずらしいのか、よく話す。石動神社に訪ねたときも、出会った人はよく話した。根ケ布だったか近くに勝沼の時宗の寺があるという。今回、この歓喜寺のほかに飯能下畑にある金蓮寺も訪ねてみたかった。時宗の寺だ。

・・歓喜寺は墓地の開発だけは進んでいるようで、近隣に住み着いている家に檀家の募集がある。話をした人の家は古いは古いが、明治頃までのは火災で焼けて過去帳は無いという。それでも古い墓石、板碑が残るというので、二三見させてもらった。磨耗があって読みにくいが、寛文というのが読める。1661年から1672年の間、芭蕉はこの頃藤堂家に出仕して寛文12年(1672)には江戸に下っている。ほかに天明三年という碑も草葉の蔭にある。1783年、浅間山大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
時代背景を探ると胸にぐっと来るものがある。

・・墓碑板碑には江戸天明、文化文政の頃までは青梅、飯能でよくみかける。天保年間のものは少ないという印象だ。死者の霊魂の居場所を安めるというより、父が祖父の、子が父の霊魂を引き継ぐような心性は幕末にかけてどんどん薄れていったのではないか。維新の近代は総じて過去を清算してはじめる私生児たちのエネルギーで満ちていた。


長閑さや清水滴る岩の鼻
陽炎や清水滴る岩の鼻
月かげや清水したたる岩の鼻

岩鼻やここにもひとり月の客   去来
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 5月 2日(火)21時38分22秒
編集済
  ・・泉岳寺。亡くなった稲葉真弓は上京以来国分寺の恋ヶ窪にながく住んでいた。武蔵野のハケの様子など地誌には敏感でそれでいて詩のモダニズムの流れもよく見ていた。もういいやといって北品川のマンションに移っていった頃まで詩の話をしていた覚えがある。品川に移ってさっそく近辺の散策にでたエッセイを読んだことがある。・・その中で海に近い風情を気に入っていたようで起伏のある土地も歩いて楽しんだ。・・泉岳寺にもばったり。あの忠臣蔵の赤穂浪士たちの墓がそのままあって妙に感動していた。何が感動かなどはまったく説いてはいない。

・・自分も先日港区芝、品川を訪ねる用があり、三田済海寺、亀石古墳など、その後品川海晏寺に行こうとして坂を下ったら、泉岳寺に出た。

・・荻生徂徠と赤穂浪士については、落語にもある。赤穂浪士46人の切腹については儒学者の意見が求められ、中で荻生徂徠の切腹進言が将軍に採用されたという。赤穂浪士の切腹はほぼ徂徠の裁可というのが定説だ。

「大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているようであるが、元来、まず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったのは筋違いだ。内匠頭はどんな恨みがあったのかは知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果たさなんだのである。心得ちがいといわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得違いを受け継いで上野介を殺した、これを忠と呼ぶことができるであろうか。しかし士たる者、生きてその主君を不義から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめたのだとすれば、その志や悲しく、情に於いては同情すべきも、天下の大法を犯した罪は断じて宥 (ゆる) すべきではない。」
「…内匠頭は殿中を憚らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格に言えば内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らは吉良氏を仇として猥りに騒動を企て、禁を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を憚らざる不逞の所為である。当然厳罰に処せられるべきであるが、しかし一途に主君のためと思って、私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申しつけらるるが至当であろう。…」

・・長岡藩では、藩校崇徳館で古文辞学が教えられていたが、荻生徂徠の弟子太宰春台は信州飯田の人。赤穂浪士の討入りには、さらに過激な論を述べている。

「春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという。」

・・私が訪ねた時は、やはり変な人気があるのか、人の訪問が絶えない。外人も神妙な顔つきで来ている。耳を澄ましたらドイツ語ぽい。浅草の有象無象の外人とは趣きも異なる。

如来寺。正式には、養玉院帰命山如来寺。今は品川でも西大井にあるが、明治41年までは芝高輪この泉岳寺のすぐ南隣にあった。五智如来の木像があったので、目立った景色であったという。寛永13年(1636)木食但唱上人によって開創された。これは帰命山如来寺。養玉院はまた別の歴史がある。

・・ところで、この但唱上人だが、品川の地元では現今調査されているものと大いに異なる出自をもつ。深く調べたわけではないので間違いもあるかもしれないが、おおよそ地元では深川あたりにいたキリシタンの大工だったという話だ。

「徳川三代将軍徳川家光が元和9年(1623年)10月31日キリスト教信者50人を処刑した(徳川実紀より)。処刑されたのは、エロニモ・デ・アンゼルス神父、シモン遠甫、ガルベス神父、原主水他。」
「刑場があった高輪大木戸(東海道にあった江戸内外を示す関所)の石垣の一部が残され、石碑が設置されている。」

・・この高輪の刑場というのが、如来寺の場所と重なるのではないか、あるいは、如来寺はキリシタンの埋葬地ではないかという話がある。但唱も処刑されるはずのキリシタンだったが、どういうわけか一人だけ刑を逃れた。隠れキリシタンが仏教に改宗をよそおい五智如来をつくった。

芝五智如来(江戸期の書籍「望海毎談」)

「如来寺、芝高縄手通り、五智の如来堂にして、世に芝の大仏と云ふ、此の仏建立せしは、天台宗にて、但昌といへる木食なり、依って、本堂迄取立て、東叡山の末寺なり、当所、江戸創業の始めは、刑罪の屠所なりしが、其後、鈴ヶ森の地へ引たり、但昌、其後、相州一石山に籠り、薬師如来を建立し、其所にて遷化す~ 」

キリシタン原主水の殉教というのは、目頭が熱くなる。但昌などは井月と同じで出自はああでもないこうでもない。作り話が多い。

1623年、品川海岸でのキリシタン50人処刑というのは、火刑。(家光)

1619年には、京都六条河原でキリシタン52名が処刑。火あぶり刑。(秀忠)

「キリシタンの刑死者は屍体が盗まれないように埋葬されていたらしい。 当然ながら札の辻での処刑者の後始末は品川宿小屋頭長九郎配下の者たちが行なっていた。

一説によると埋葬した場所は近くの高輪車町(たかなわくるまちょう)の小山ではなかったろうか。 著者不明とされる 『望海毎談(ぼうかいまいだん)』 によると寛永13年 (1636) 刑場とされる跡地には如来寺が創建されている。」

「品川溜の非人頭長九郎とその配下の非人たちが処刑された死体の処理を行ったと記しています。・・この品川溜は現在の京浜急行青物横丁駅前(現在の交番付近)にあったよう」


・・驚きですね。品川鮫洲にある海晏寺はこのすぐ近く。青物横丁駅前で、道を尋ねたこと憶えています。海晏寺には鳥酔、白雄のお墓があります。






 

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