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(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 8月22日(火)11時08分34秒
編集済
  如菩薩も花にうかれつ法の庭

身はなきものと思へ共、花の咲日はうかれこそすれ、中々に堪忍ならぬ花曇

・・

ここ、光前寺  天台宗別格本山 本尊不動明王秘仏
長野県駒ヶ根市赤穂29番地
        北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

秋葉山本宮秋葉神社  静岡県浜松市天竜区春野町領家
    北緯34度58分52.44秒 東経137度51分56.81秒
    主祭神 火之迦具土大神

『東海道名所図会』には秋葉大権現の利益として「第一には弓箭刀杖の横難を免れ、第二には火災焼亡の危急を免れ、第三には洪水沈没の免れさせたまふ」とある。

秋葉山本宮秋葉神社には、古来より多くの日本刀が献納されて来たり、今に至っている。
・・
『寶物実録』に記された献納者の内、名立たる武将として伊豫守源頼義・為朝・足利尊氏・今川仲秋・武田信玄・長曽我部元親・豊臣秀吉・加藤清正・福島正則などの名が挙げられる。


 
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 8月16日(水)21時51分47秒
編集済
  水無月ノ土サヘワルゝアツキ日ニ
ヒトリ露ケキナデシコノ花

・・季吟が丹波の山越え貝原の里にでたそうだ。おすてというあやしい娘がいて洛の季吟のファンであった。山越えてあつい日中にこの家の門にたずね水ひとつ乞うた。おおこの人よと思いつつ水をひと汲みさしだした。季吟殿句あらばまいらすべし。打ち笑いつつ、
「葛水や鼻の下行よしの川」季吟
と聞こえたれば当座の吟ながらおかしかりし。

・・綾足『俳仙窟』にこんな下りがある。季吟は芭蕉の師北村季吟。おすては盤珪和尚と季吟に師事した田捨女。でもこれ本当の話だろか。

龍之介も「水涕や鼻の先だけ暮のこる」なんて詠まずおすて季吟にならうべしや。


まり様

「花曇」の讃をつづけます。

光前寺  天台宗別格本山 本尊不動明王秘仏
長野県駒ヶ根市赤穂29番地
        北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

木母寺 北緯35度44分02秒 東経139度48分51秒 墨田区 本尊地蔵菩薩
六義園  北緯35度43分59秒 東経139度44分48秒  東京都文京区本駒込六丁目


・・江戸には、五色の不動明王があるそうな。

●目黒不動 荏原郡目黒村   瀧泉寺    慈覚大師作
●目白不動 小石川關ロ水道町  新長谷寺 弘法大師作
●目赤不動 本郷区駒込淺嘉町  南谷寺
●目黄不動 本所区表町       最勝寺
     下谷区三ノ輪町    永久寺
●目青不動 荏原郡世田ヶ谷村三軒茶屋

・・関東の三大不動尊といえば、

●成田山新勝寺(成田不動尊)千葉県
●高幡山金剛寺(高幡不動尊)東京都
●(雨降山大山寺(大山不動尊)神奈川県)幾つか説がある。

・・江戸の三大不動は、

●目黒不動 「創建は大同3年(808)、慈覚大師円仁によるという伝承がある。
元和元年(1615)本堂が焼失したが、後に三代将軍家光公がこの地で鷹狩りを行った際、その鷹が行方不明になり、家光公は不動尊に祈願をしたところ、鷹が松の木(鷹居の松)に戻った。家光公は不動尊の力を尊信し、堂宇伽藍を再建し江戸城五方の方難除け、五街道の守護に当てた。」
●目白不動 「新長谷寺は、奈良の真言宗豊山派総本山長谷寺末であり、本尊不動明王は断臂不動明王と呼ばれていた。弘法大師が湯殿山に参籠の際、大日如来が不動明王の姿で現れ、自らの剣で左臂を切り、ここから霊火が燃え盛り大師にお言葉を告げられた。大師はそのお姿を刻み、それが断臂不動明王であるという縁起が伝承されている。」
●薬研堀不動尊(川崎大師東京別院) 「天正13年(1585)、紀州(現和歌山県岩出市)根来寺の大印僧都が、豊臣秀吉の兵火に遭った根来寺からご本尊の不動明王を江戸隅田川付近に移し、堂宇を建立したのが始まりと言われている。」


青梅山金剛寺  東京都青梅市天ヶ瀬町 N35度47分22秒 E139度14分59秒
        真言宗豊山派 本尊白不動明王(智証大師画)

安楽寺  東京都青梅市成木1-583 N35度50分18秒 E139度16分31秒
     真言宗単立 本尊 愛染明王・不動明王・軍荼利明王
    行基が和銅年間(708-714)に軍荼利明王を彫刻・安置して創建

成田山新勝寺  N35度47分09秒 E140度19分05秒
       真言宗智山派 本尊不動明王(弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼)


隅田川神社  東京都墨田区堤通2-17-1  北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒
     祭神 速秋津日子神、速秋津比売神、鳥之石楠船神、大楫木戸姫神

・・絵にみえる山は、筑波山。北緯36度13分31秒 東経140度6分24秒 標高877m
  西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)

伊那の火山峠 標高853m

・・

青梅勝沼に石動神社がありますが、この本山は、
能登石動山  N36度57分55秒 E136度58分15秒
伊須流岐比古神社 N36度57分46秒 E136度58分25秒

大伴家持がよく訪ねたといわれる、
田子浦藤波神社、N36度48分56秒 E136度59分32秒

ここから思い切り海の見えるところまで南下すると、
伊良湖崎  N34度34分52秒 E137度00分55秒
神島  N34度32分47秒 E136度58分56秒

多胡の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
たこのうらのそこさへにほふふぢなみをかざしてゆかむみぬひとのため
(次官内蔵忌寸縄麻呂)

・・
鬼灯の色にゆるむや畑の縄
鬼灯や知らぬ子どもの連になる

鷹一つ見付けてうれしいらご崎  芭蕉
いらご崎にる物もなし鷹の声

ぬけ星は石ともなるか鳴く千鳥   井月



 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 8月10日(木)18時29分29秒
編集済
  ・・芥川龍之介が雑誌『明星』に載せた旋頭歌がおもしろい。大正十四(1925)年三月発行。なにゆえ『明星』か、というか謎。
力作『庭』に井月が登場する。「蛙が啼いてゐるな。井月はどうしつら?」これも中村の長男の辞世。

大正十年(1921)四月十一日。聖徳太子千三百回忌年祭、斑鳩の法隆寺。
大正十年(1921)十月二十五日。『井月の句集』刊。
大正十一年(1922)六月。芥川短篇『庭』
大正十二年(1923)9月1日11時58分32秒頃。関東大震災
大正十四(1925)年三月。芥川旋頭歌『越びと』(『明星』掲載)

・・この大正十二年の関東大震災だが、龍之介は川端康成とともに吉原の被災現場をみて歩いた。ヘルメット着用にて快活に飛び歩く装いがみえたと川端のエッセイに描かれている。
・・震災当時吉原の大門が閉じられて、遊女の逃亡を防ぐという風習は残っていた。遊郭内で起きた火事がつづき、逃げ場を失った遊女たちは吉原弁財天内の池に次から次へと飛び込んだといいます。この時遊女らの死者490人。
「吉原遊郭の池は見た者だけが信じる恐ろしい地獄絵であった」

蟷螂やものものしげに道へ出る

  *

安政二年 江戸大地震

安政三年 成田山出開帳

「安政3年3月20日より60日間、深川永代寺で出開帳が行なわれた。『武江年表』には、安政3年の様子を「開帳中、日参朝参等夥しく諸人山をなせり。永代寺境内は寸地を洩らさず、看せ物、茶店、諸商人の仮屋をつらねたり。又奉納の米穀、幟、挑灯、扁額等境内に充満せり」と記されているほど盛況であった。開帳とは、厨子や戸帳を開いて普段は見ることの出来ない秘仏を拝観させ、民衆と結縁する宗教的行事である。成田山では、江戸時代に23回開帳を行っているが、その中心となったのは、深川永代寺八幡宮社地で行った江戸出開帳である。」


安政の台風

「安政3年8月25日(1856年9月23日)、「安政3年の大風災」と呼ばれる大きな風水害が発生した。これは、江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことによって、江戸の街一帯が暴風と高潮の被害を受けたことによるものである。また、暴風雨に加えて火災が発生したことも被害を大きくし、この台風による死者は、資料にもよるが最も多いもので約100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては過去最悪の被害とされている。」

飯能名栗原市場 星宮神社に芭蕉句碑がある。

「聲澄みて北斗にひゞく碪かな」 揮毫は、孤山堂卓郎(小森卓郎)。安政三年。

卓郎は三島の人。江戸に出て宗匠となった。
「蓬莱にひと膝すゝむ会釈かな」  越後獅子、家づと集に収載。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 8月 7日(月)17時02分47秒
編集済
  ・・「翡翠」という歌集がある。『翡翠』大正五年(1916)3月25日、片山廣子第一歌集。因みに翡翠はかわせみと読む。きれいな鳥のこと。


よろこびかのぞみか我にふと來る翡翠の羽のかろきはばたき


     *

空ちかき越路の山のみねの雪夕日に遠く見ればさびしき
花草の信濃たか原あさ行けば人の世遠くみそらのちかき
霧ふかしうぐひすむせぶ雜木原とつくに人に路とひにけり
朝風に霧はれゆけば山つばめ木の葉の如く吹かれて舞ひぬ
山羊の子は流のふちの桑の葉もはみ飽きたるか我により來る
夕もやに顏うかせたる花あざみ寂しき息を野にただよはす
わた雲とみそらと我となでしこと嶺にある日はいとさびしけれ
さびしらに淺間葡萄も吸ひて見む人醉はしむる毒ありといふ
月見草ひとり覺めたる高原の霧にまかれて迷ひぬるかな
朝霧の底に夢みる高き木にうぐひす鳴けばわが心覺む
雲の影遠野をはしるまひる時みねに立ちつつ我がいひしこと
日ごろ我が思はぬ人もいと戀し日の入りあひにみやまどり鳴く
此夕べ淺間の煙かがやきてにほふ入日に寺の鐘なる
遠山と我と立つ時やみに伏す大野のむねにおつるいなづま
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 8月 2日(水)12時33分38秒
編集済
  ・・入間川で採れるヤマベはオイカワと同じものという。いつかササゴイが捕らえていたのを見た。

「垂仁天皇の皇子ホムチワケは成人してもものを云わなかった。しかし空をゆくクグヒ(白鳥)の声を聞いて、はじめて声を出してものを云った。そこで天皇は山辺大タカ(帝+鳥)という者をつかわして白鳥を捕らえさせた。大タカは白鳥を追って紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬の国を訪ね歩き、さらに近江、美濃、尾張、信濃と経巡って、越の国の和那美のみなとに至り、そこで網を張って白鳥を捕え、天皇に献じた。」

たましひの鳥

「鷹はたましひの一時の保有者であった。だからこの鷹によって、鎮魂を試み、あるいはうらなひを行うことになった。鷹には鈴をつけて放すのが定りである。この鈴の音が、呪術とうらなひとに交渉を持って居るものであろう。白鳥はたましひの鳥であり、もっとつよく云えば、逸れ行くたましひをつきとめ、もたらし帰るもの、と考えられた方面もある。こうしたものを求める動作は、たましひの場合に限って、こひと称している。こひは白鳥を指す『こふ』という語からも裏付けられる。垂仁帝の息子のほむちわけの場合は、たましひの鳥、鵲を追うていったのは山辺大鷹となっている。たましひの鳥を追うがために鷹の名をとったのか、あるいは説話学の考方にしたがって、鷹の人格化せられた名と見るべきか、いずれにしてもたまごひと鷹との関係を思わせる。」
                                  折口信夫「恋及び恋歌」

・・倉木マイ。出色のブレークシンガー。何度聞いてもあきない。木工家の五十嵐誠さんなんかも大手を振って応援している。「逸れ行くたましひをつきとめ、もたらし帰るもの」・・鷹は鈴音を鳴らして虚空に舞う。この鈴音の遠さと近さが倉木マイの声に似ている。たましひを狩するもの。


 まゐ殿

・・京に出没する鬼の話を続けましょう。

大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立
               小式部内侍

和泉式部の娘で美貌で才気煥発であったとか。大江山は山城と丹波の国境、あるいは丹波と丹後の境にある山。母親の式部は当時夫保昌の任地丹後に住んでいた。あまの橋立は風光明媚の名所。

平安王朝女流の爛熟時代、紫式部、和泉式部、清少納言など源氏物語に描かれた時の天皇は一条天皇(
天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))。

大江山酒呑童子伝説は山城と丹波の境にある老坂にたむろした鬼の話。ちょうどこの式部たちの活躍した時代である。

「一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。」 wikiより

『大江山酒天童子』
昭和35年 (1960) 大映京都、田中徳三監督。当時の大映オールスターキャストで製作された豪華大作。出演:長谷川一夫(酒天童子)、市川雷蔵(源頼光)、勝新太郎(渡辺綱)、本郷功次郎(坂田金時)他。
当時の60年安保での世相を反映し、酒天童子を志を持った革命家として描いている。

・・京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。

・・摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、長徳元年(995年)に討伐に向かった。


 この坂田公時ですが、足柄山の金太郎さんですね。山姥の母という。


・・酒呑童子の生い立ちについて、

平安初期に越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった。絶世の美少年であったため多くの女性に恋され恋文をもらったが、貰った恋文を読みもせず全て焼いてしまったところ、想いを伝えられなかった女性の恋心が煙となって、彼の周りを取り囲み、その怨念によって鬼になったという。そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。

一説では越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5~6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。

*河井継之助は、越後が生んだ三傑として、酒呑童子・上杉謙信・良寛の三人を挙げている。


 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月22日(土)18時53分57秒
編集済
  ・・七月 暑い~ね。
家で必死にこの暑さに耐えるのは、芸がない。もともと真夏の猛暑というのは得意だった。サハラ砂漠の猛暑も知っている。ただやはり年を取ったか。暑さに逆張りするほどの気概はない。で、入間川サイクリングロードを走って川越までポタリング。これは逆張りではない。天然水がいかに美味く飲めるか。これが最良の健康法だと最近気付いた。「森の水だより」というのが気に入ってる。180mmペットボトルに目一杯つめてこれで足りないのは承知のこと。大宮の友人と川越で落合う予定だったが、先方はこの暑さにダウン。で、単独で出かけることにした。・・わたしの自転車はたいしたものだ。もう6~7年になるがほとんど狂いはない。クロスバイクは輪行にちょい無理もあるがなんとか無難にこなす。それにひきかえパソコンのwin10というのは最悪。先日完全に壊れた。再利用の仕方もわからない。

・・ぼやいていても暑いばかりなんだから、ともかく入間川へ。このサイクリングロードは最高だ。

自転車で走ってるうちは風を切るので爽快だ。家でもそうだが停滞したら暑さがぐっとくる。外は風があれば木陰はいい。・・川に沿った公園やグランドが開けている。休日で各種団体の遊びがあってサイクリングロードの脇まで親子連れが陣取ってる。で、徐行していたが、急に子供がひとり飛び出してきた。人身事故を避けるため急ブレーキ。子供にはあたらなかったが、自分は勢いで転倒。気を失ったふりしてしばらく倒れて目を瞑っていた。「すみません」「大丈夫ですか」ぶつかった場合どちらが悪いのか。すこし考えたがともかく当らなかった。倒れ方もよかったので体も自転車もほぼ無疵。こういうのすこしでもキズがあるとあとあと残るものだけど、今回はパーフェクト。・・しかしあぶなかった。

・・丁度一年前か川越市街に来ている。入間川は左岸から右岸にわたる最後の橋は何といったか。霞ヶ関という変った名の地がある。ここで渡る。川沿いをやめてそのまままっすぐ進む道がベストだ。前回までの経験が生きている。

・・中心街へ。連雀通りを行くと蓮馨寺というのが見えた。「小江戸川越こころのふるさと」 三河の徳川はこの浄土宗ですね。本尊は阿弥陀如来、法橋覚慶作。文化財で元禄の梵鐘というのがあって、元禄八年(1695)の作。作仏僧円空はこの年に死没。元禄七年(1694)は俳聖芭蕉の没年。

「おびんずる様」というのがよく参拝されている。祈願所(呑龍堂)の外にあり、参拝者が直接そのお身体にさわるとその病気が治り、その御頭にさわると頭が良くなるという。・・それで自分もよいめぐりあわせと思い、順番をまって「おびんずる様」のお身体に触れてみた。おびんずるは釈迦の弟子でも神通力がぬけておりその神通力の使いすぎを釈迦に戒められた結果、仏滅後にも多くの衆生を済度する仕事を任されたという。

*賓頭盧(びんずる) 釈迦の弟子の1人。獅子吼(ししく)第一と称される。名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャである。名前の意味は、不動、利根という。十六羅漢の第一。

・・さて、まったく予定がない。暑いだけならポタリングも即終了かと。川越は時の鐘周辺に人は集まる。氷川神社というのがあって、一年前訪ねたのとは別のもよう。ここを訪ねることにした。人に聞き聞き「ごめんなさい」「わたしも知りません」というのが多い。それでもなんとか辿り着くと人が多い。人気してるようだ。氷川はスサノオを祀る。浴衣すがたの女子が多い。どんなご利益があるのか暑いので考えたくも無い。・・おもしろいのは中に関東ではここだけという柿本神社というのがある。山上憶良の歌碑もある。・・顔はjapaneseでも言葉はチャイナかコリアか。暑いので考えたくも無い。

文明二年(1470) 河越千句。 太田道真、宗祇、心敬・・

うめそのに-くさきをなせる-にほひかな
にはしろたへの-ゆきのはるかせ
うくひすの-こゑはとやまの-かけさえて
のへにうつれる-みちのはるけさ
ならはすよ-いつくのつきそ-たひまくら
みやこいつれは-みしあきもなし
すさましく-しくるるそらの-くれそめて
くもよりをちの-いりあひのかね
くさのとに-ひともおとせぬ-やまふかみ
ほのかにのこる-まつのしたみち


・・この川越から西に進むと梅林で名高い越生。この山間に太田道真の隠居の庵がある。宗祇、心敬、万里集九などもここを訪れた。芭蕉は河越の痕跡はないですね。井月もないけどたぶん寄ってはいるでしょう。越生のすぐ隣りが都幾川、慈光寺がある。南へ下れば日高、飯能、青梅だが、この道もおもしろい。連歌師宗長が歩いているのは確かだ。

・・正岡子規が川越に句を残しているのは、あまり知られていない。
「砧うつ隣に寒き旅寝かな」 吉見百穴を見ての帰りに寄ったという。明治24年(1891)25歳。

・・やたら暑い。川越ではほかに興あること多々あったが、帰路につく。往路であやうく衝突事故かというのは、親水公園の敷地かと。帰りこの公園の入口付近に水路が分かたれて釣り人のいるところがある。水草の匂いがして、魚もたくさんいそう。自転車を木陰にとめて、魚釣りの具合を尋ねてみた。「何が釣れるのですか」「ヤマベ」。ヤマメかと聞き返したらヤマベという。実物を見たかったが、釣れた先すぐ水にもどしているという。・・つれずれにいろいろ話し込むと、大変な太公望で川釣り海釣り、日本各地のほか外国でもやっている。ここに合流する川は宮沢湖が水源とか。あそこはブラックバスですね。この入間川でも5匹に一匹はバスだという。オイカワという魚を呑みこむサギをねらったカメラマンがたくさんでしたよ。アユはいないんですか。入間川は石がないからアユはいない。・・おもしろいのは、私の幼少の頃の記憶がまざまざ蘇ったことだ。市川の真間川の上流境川のことも知っている。タナゴという熱帯魚のような魚がいた。いまは希少で天然記念物だという。飯能の山奥にしかみられない。モスリンという鮒釣りの池も知っている。・・アメリカでは、ヘミングウェイの様にカジキを釣ったとか。南米ではピラニアを。・・釣りの話ならいくらでもありそう。さすがに暑いので、死んじゃうよ。そういって竿をしまいはじめた。ありがとうといって自分も帰路に。あ、この釣り場の奥にはカワセミもよく出るそうだ。

 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月14日(金)20時20分34秒
  ・・こういう伝説があるようだ。

「四天王寺が建立される際、物部守屋の怨霊が伽藍を滅んが為に、
数千万羽のキツツキとなって堂舎をつつき妨害した。
それを知った太子が白鷹に変化し、守屋の怨霊を退治した。」

・・芭蕉が奥の細道で、黒羽の雲巌寺に訪ねた時、仏頂和尚の山居の庵をみて、
「啄木も庵はやぶらず夏木立」と詠んだ。

「鷹一つ見付てうれしいらご崎」 伊良湖岬の句は、さほどの寓意はあるまい。

井月は一味違う。

旭は浪を離れぎはなり鷹の声
鷹鳴くや日を遮て何か降る
鷹匠の涕すゝり込旭かな
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
鷹鳴くや朝日のとゞく峰の松

 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月 9日(日)19時06分56秒
編集済
  ・・百人一首の巻末の歌は、
ももしきや古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり (順徳院)

順徳院 建久八年~仁治三年(1197-1242) 後鳥羽天皇の第三皇子。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)・・承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。

件の歌は、建保四年(1216)順徳二十歳のときの詠である。

・・宗祇の遺志で金三両を三条西実隆がもらいうけたときの歌、

我身こそ千ゞの金を報ひても思ふに余る人の恵みを

・・実隆は宗祇より古今伝授をうけた特別に深い思いがあったようだ。宣長は古今伝授そのものを否定していたので、このような宗祇、実隆の遺志のつながりを理解しなかったにちがいない。

・・順徳院が佐渡で詠んだ百首御歌の中に、千曲川を詠んだものがある。

ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪(風雅36)

・・千曲川は、甲武信ケ岳に発し、長野県・新潟県を流れて日本海に注ぐ。新潟県内では信濃川と呼ばれる。順徳院が千曲川とどういう邂逅があったかわからぬが、想いは深い。

信濃なるちぐまの川のさざれ石も君しふみてば玉とひろはむ(万葉集東歌)

・・「さざれ石」→「玉」とは、ずいぶん洗練された東歌ですね。

・・

承久の変(1221)では、後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ、流された。

『最勝四天王院障子和歌』なるものがある。最勝四天王院とは、後鳥羽院の勅願により、京都三条白川の地に造営された御堂のこと。46の名所が選ばれ、それらの景色が障子に絵として描かれ、それらに各和歌が添えられた。1207年のこと。

順徳院は四天王院和歌には、参加なし。

・・46の名所のうち、更科の里を詠んだものがある。

里の名の秋にわすれぬ月影に人やはつらきさらしなの山(俊成女)


旭は浪を離れぎはなり鷹の声
鷹鳴くや日を遮て何か降る
鷹匠の涕すゝり込旭かな
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
鷹鳴くや朝日のとゞく峰の松

聖徳太子ゆかりの四天王寺とは、何か関係あるか。

・・山城の名所で、大井川を詠んでもいる。

大井河波のかよひぢたちかへりあとある風に木のは散りつゝ
(後鳥羽院)
あらし山けふの御幸のかり衣にしきになれとちる紅葉哉
(慈円)
大井河入江の松をしるべにてむかしのなみにうかぶもみぢば
(通光)
かばかりの色にはあらじ大井河むかしをうつす紅葉なりとも
(俊成卿女)
もみぢばを御幸ふりにし大井河あとなき水に秋のありける
(有家)
大井河まれの御幸に年へぬるもみぢの舟ぢあとはありけり
(定家)*註
さがの山みゆきをうつす大井河もみぢにまがふかり衣哉
(家隆)
この河にもみぢばながるあし引きの山のかひあるあらし吹くらし
(雅経)
もみぢばのふりにし世より大井河たえぬみゆきの跡をみる哉
(具親)
大井河ふるきをしのぶ事ならばもみぢのにしき御舟かざらん
(秀能)

*註「嵯峨の山みゆきたえにし芹河の千世の古道あとはありけり」(在原行平)

大井川御幸  延喜七年(907) 宇多天皇
       承保三年(1076) 白河天皇
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月 6日(木)22時21分1秒
編集済
  ・・宣長がべた誉めしてる逍遥院殿こと三条西実隆が青梅に歌を残したというので、追っている。二俣尾の海禅寺に歌碑がある。

花を見てかへるといはむ人はなしたもとを桃の錦たちきて

・・三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代の公家。 康正元年4月25日(1455年5月11日)- 天文6年10月3日(1537年11月5日)

後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門天皇の寵妃や、後柏原天皇女御で後奈良天皇生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。・・室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭守護の武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。
                   (wikiより)

・・立川の国文学研究資料館に行ってみた。件の歌の出典を探したが、コンピュータで検索しなさいということ。そういわれてもね。とりあえず歌集「雪玉集」を探った。「花を見てかへる」というのは、どうしても見つからない。武蔵野と題された歌が二つ。

なほざりの袖だに露はふるさとを秋たちそめしむさしのの原
山の端はしらでかくれぬ月やただ心づからのむさしののはら

いろいろ旅もよくしたらしく、武蔵野にも実際来ているのだろう。武蔵野はただ広いという感慨の歌多く、たいてい場所を特定できないものだ。

・・もうひとつ「再昌」という歌集もみた。文亀三年(1503)

桃花曝錦
桃花春くれなゐの錦こそ柳さくらにたちもをくれね
玉河里雑
おしますやなかるゝ月日わつかなる光も陰も玉かはのさと

・・この「玉河」はどこの玉川か。

いろいろ拾い読みしてわかったが、あまりにローカルな土地は歌がない。で、青梅などもみつかりそうもない。

・・しかし、来ているはずだが。


「宗祇終焉記」(1502)の著者柴屋軒宗長が青梅勝沼を訪問したのは、永正六年(1509)の八月二日。
これは「東路のつと」として紀行を残す。

「八月二日に武蔵勝沼といふ所に至りぬ。三田弾正忠平氏宗、この所の領主たり。かねてしも白河の道々のこと申しかよはし侍りしかば、ここのやすらひ十五日に及べり。連歌たびたび、
霧は今朝分け入る八重の外山かな
この山家、後ろは甲斐の国の山、北は秩父などいふ山に続きて、まことの深山とはここをや申すべからん。この山深き心ばかりなるべし。同じ所に山寺あり。前は武蔵野也。杉本坊といふにして、
霧を吹く野風か花に朝曇り
同じく十五日に、氏宗同じく息政定、これかれ駒うち並べて、武蔵野の萩・薄の中を行き過ぎがてに、日暮し二日に分けはてて、長尾孫太郎顕方館、鉢形といふ所に着きぬ。政定に馬上ながら口ずさびに、
武蔵野の露の限りは分けも見つ秋の風をば白河の関 ・・」

・・杉本坊は塩船観音寺。その前の東側に開けた土地を武蔵野とみている。小高い丘陵は杣保と呼ばれ、江戸の資材を養っている。勝沼には二週間ほど滞在、埼玉の寄居にある鉢形まで馬で行く。道中の風光すべて武蔵野のものと認めているのがわかる。

「宗祇終焉記」でも鎌倉から武蔵野を分け入って上野(群馬高崎あたりか)越後へと向うに、武蔵野の経路は記述なしだが、やはり勝沼の三田氏の城を訪ねたと思える。

興味深いのは、武蔵野の風光の認識が、青梅の杣保からはじまっているということだ。

・・北条氏康「武蔵野紀行」(1546)でも、青梅の勝沼を訪れた記述がみられる。

この紀行、はなはだ胡散臭いものだが、勝沼訪問の行を引いてみる。
「比は八月上旬、朝霧深く分け入りて行くに山あり。いは山と云ふ。此の山の後は甲斐の山、北は秩父など申し侍る。夫より武蔵の国勝沼と云ふ所に着きぬ。斎藤加賀守安元、此の所の領主なり。常々道々の事申し遣はしければ、山海の珍物数を尽し饗応しける。
 此の所に二日逗留して、夫より武蔵野を狩り行くに、誠に行けども果のあらばこそ。萩芒女郎花の露に宿れる虫の声、あはれを催すばかりなり。
 武蔵野といづくをさして分けいらん行くも返るもはてしなければ
古の草のゆかりも懐かしければなり。是も紫の一本のゆゑなるべし。
 隔つなよわが世の中のひとなればしるもしらぬも草のひと本 」

・・藤沢から北に道をとり勝沼に入る前に「いは山」に至る。「此の山の後は甲斐の山」云々は「東路のつと」の描写そのまま、しかし「いは山」は高尾山のことと思われる。斎藤加賀守安元は勝沼の領主ではない。「武蔵野といづくをさして分けいらん・・」の歌も想像でつくれるような陳腐な歌だ。

それより、新拾遺集にある藤原行春の歌がおもしろい。

 分けゆけど花の千種のはてもなし秋を限の武蔵野の原

さらに源通光の武蔵野は、

武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風かすゑに吹くらむ(新古378)

 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月 2日(日)22時33分39秒
編集済
  ・・五月に訪れた甲斐大和。帰路塩山駅で電車待ちをしたプラットホ-ム。畳んだ自転車をどの客車に乗せるべきか。たまたま来た掃除廻りのおばさんに聞いてみた。客車の先頭か最後尾か。水を撒いて仕事しながら親切に応対。・・愛想のいい人で声の響きもなぜか気になった。おばさんもういいよ、ご親切にありがとう。いいえこちらこそ、お気をつけてお帰りを。・・で、電車に乗って思い当たったのだが、あの人は昔立川の職場にいたチヨちゃんという人だ。まちがいない。話をしている時はわからなかった。あ、なつかしい。向こうは憶えていたかな。たぶん気がつかなかったのは自分のほうか。しかし、なつかしい。・・こういうのって危ないんでしょうね、きっと。

・・千代の古道を追ってみる。


鳴滝(京都) 座標: 北緯35度11分30.1秒 東経135度38分11.8秒

・・地名の由来は、この地に小さな滝があり、ある時、その小滝が、ゴーゴーと凄い轟音をたてていたという故事による。村人たちが不思議がって、寺の和尚に相談したところ、和尚も不審に感じ、全員を、高台の寺に集合させた。すると、その夜、村は大洪水に襲われ、全壊してしまった。この出来事により、小滝は「鳴滝」と呼ばれ、村の方も「鳴滝の里」と呼ばれるようになった
                                  (wikiより)

鳴滝音戸山の山上にあった蓮華寺。

・・後、永らく荒廃した。江戸時代、1641年、江戸の豪商 樋口平太夫家次により、音戸山に再興されている。また、木食上人但称(但唱)により五智如来などの石仏群像が6年の歳月をかけ造立され、伽藍、堂宇も建立された。


嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒  定家

千代のふる道のコースだが、ひとつに松尾大社から広沢池、大沢池(嵯峨大覚寺)へ歩く道というのがある。二つの池は観月のコースだ。

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。・・本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇。

・・この五大明王ですが、画像をあれこれ眺めているうち、体調がおかしくなります。

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