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(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月22日(土)18時53分57秒
編集済
  ・・七月 暑い~ね。
家で必死にこの暑さに耐えるのは、芸がない。もともと真夏の猛暑というのは得意だった。サハラ砂漠の猛暑も知っている。ただやはり年を取ったか。暑さに逆張りするほどの気概はない。で、入間川サイクリングロードを走って川越までポタリング。これは逆張りではない。天然水がいかに美味く飲めるか。これが最良の健康法だと最近気付いた。「森の水だより」というのが気に入ってる。180mmペットボトルに目一杯つめてこれで足りないのは承知のこと。大宮の友人と川越で落合う予定だったが、先方はこの暑さにダウン。で、単独で出かけることにした。・・わたしの自転車はたいしたものだ。もう6~7年になるがほとんど狂いはない。クロスバイクは輪行にちょい無理もあるがなんとか無難にこなす。それにひきかえパソコンのwin10というのは最悪。先日完全に壊れた。再利用の仕方もわからない。

・・ぼやいていても暑いばかりなんだから、ともかく入間川へ。このサイクリングロードは最高だ。

自転車で走ってるうちは風を切るので爽快だ。家でもそうだが停滞したら暑さがぐっとくる。外は風があれば木陰はいい。・・川に沿った公園やグランドが開けている。休日で各種団体の遊びがあってサイクリングロードの脇まで親子連れが陣取ってる。で、徐行していたが、急に子供がひとり飛び出してきた。人身事故を避けるため急ブレーキ。子供にはあたらなかったが、自分は勢いで転倒。気を失ったふりしてしばらく倒れて目を瞑っていた。「すみません」「大丈夫ですか」ぶつかった場合どちらが悪いのか。すこし考えたがともかく当らなかった。倒れ方もよかったので体も自転車もほぼ無疵。こういうのすこしでもキズがあるとあとあと残るものだけど、今回はパーフェクト。・・しかしあぶなかった。

・・丁度一年前か川越市街に来ている。入間川は左岸から右岸にわたる最後の橋は何といったか。霞ヶ関という変った名の地がある。ここで渡る。川沿いをやめてそのまままっすぐ進む道がベストだ。前回までの経験が生きている。

・・中心街へ。連雀通りを行くと蓮馨寺というのが見えた。「小江戸川越こころのふるさと」 三河の徳川はこの浄土宗ですね。本尊は阿弥陀如来、法橋覚慶作。文化財で元禄の梵鐘というのがあって、元禄八年(1695)の作。作仏僧円空はこの年に死没。元禄七年(1694)は俳聖芭蕉の没年。

「おびんずる様」というのがよく参拝されている。祈願所(呑龍堂)の外にあり、参拝者が直接そのお身体にさわるとその病気が治り、その御頭にさわると頭が良くなるという。・・それで自分もよいめぐりあわせと思い、順番をまって「おびんずる様」のお身体に触れてみた。おびんずるは釈迦の弟子でも神通力がぬけておりその神通力の使いすぎを釈迦に戒められた結果、仏滅後にも多くの衆生を済度する仕事を任されたという。

*賓頭盧(びんずる) 釈迦の弟子の1人。獅子吼(ししく)第一と称される。名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャである。名前の意味は、不動、利根という。十六羅漢の第一。

 
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月14日(金)20時20分34秒
  ・・こういう伝説があるようだ。

「四天王寺が建立される際、物部守屋の怨霊が伽藍を滅んが為に、
数千万羽のキツツキとなって堂舎をつつき妨害した。
それを知った太子が白鷹に変化し、守屋の怨霊を退治した。」

・・芭蕉が奥の細道で、黒羽の雲巌寺に訪ねた時、仏頂和尚の山居の庵をみて、
「啄木も庵はやぶらず夏木立」と詠んだ。

「鷹一つ見付てうれしいらご崎」 伊良湖岬の句は、さほどの寓意はあるまい。

井月は一味違う。

旭は浪を離れぎはなり鷹の声
鷹鳴くや日を遮て何か降る
鷹匠の涕すゝり込旭かな
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
鷹鳴くや朝日のとゞく峰の松

 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月 9日(日)19時06分56秒
編集済
  ・・百人一首の巻末の歌は、
ももしきや古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり (順徳院)

順徳院 建久八年~仁治三年(1197-1242) 後鳥羽天皇の第三皇子。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)・・承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。

件の歌は、建保四年(1216)順徳二十歳のときの詠である。

・・宗祇の遺志で金三両を三条西実隆がもらいうけたときの歌、

我身こそ千ゞの金を報ひても思ふに余る人の恵みを

・・実隆は宗祇より古今伝授をうけた特別に深い思いがあったようだ。宣長は古今伝授そのものを否定していたので、このような宗祇、実隆の遺志のつながりを理解しなかったにちがいない。

・・順徳院が佐渡で詠んだ百首御歌の中に、千曲川を詠んだものがある。

ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪(風雅36)

・・千曲川は、甲武信ケ岳に発し、長野県・新潟県を流れて日本海に注ぐ。新潟県内では信濃川と呼ばれる。順徳院が千曲川とどういう邂逅があったかわからぬが、想いは深い。

信濃なるちぐまの川のさざれ石も君しふみてば玉とひろはむ(万葉集東歌)

・・「さざれ石」→「玉」とは、ずいぶん洗練された東歌ですね。

・・

承久の変(1221)では、後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ、流された。

『最勝四天王院障子和歌』なるものがある。最勝四天王院とは、後鳥羽院の勅願により、京都三条白川の地に造営された御堂のこと。46の名所が選ばれ、それらの景色が障子に絵として描かれ、それらに各和歌が添えられた。1207年のこと。

順徳院は四天王院和歌には、参加なし。

・・46の名所のうち、更科の里を詠んだものがある。

里の名の秋にわすれぬ月影に人やはつらきさらしなの山(俊成女)


旭は浪を離れぎはなり鷹の声
鷹鳴くや日を遮て何か降る
鷹匠の涕すゝり込旭かな
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
鷹鳴くや朝日のとゞく峰の松

聖徳太子ゆかりの四天王寺とは、何か関係あるか。

・・山城の名所で、大井川を詠んでもいる。

大井河波のかよひぢたちかへりあとある風に木のは散りつゝ
(後鳥羽院)
あらし山けふの御幸のかり衣にしきになれとちる紅葉哉
(慈円)
大井河入江の松をしるべにてむかしのなみにうかぶもみぢば
(通光)
かばかりの色にはあらじ大井河むかしをうつす紅葉なりとも
(俊成卿女)
もみぢばを御幸ふりにし大井河あとなき水に秋のありける
(有家)
大井河まれの御幸に年へぬるもみぢの舟ぢあとはありけり
(定家)*註
さがの山みゆきをうつす大井河もみぢにまがふかり衣哉
(家隆)
この河にもみぢばながるあし引きの山のかひあるあらし吹くらし
(雅経)
もみぢばのふりにし世より大井河たえぬみゆきの跡をみる哉
(具親)
大井河ふるきをしのぶ事ならばもみぢのにしき御舟かざらん
(秀能)

*註「嵯峨の山みゆきたえにし芹河の千世の古道あとはありけり」(在原行平)

大井川御幸  延喜七年(907) 宇多天皇
       承保三年(1076) 白河天皇
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月 6日(木)22時21分1秒
編集済
  ・・宣長がべた誉めしてる逍遥院殿こと三条西実隆が青梅に歌を残したというので、追っている。二俣尾の海禅寺に歌碑がある。

花を見てかへるといはむ人はなしたもとを桃の錦たちきて

・・三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代の公家。 康正元年4月25日(1455年5月11日)- 天文6年10月3日(1537年11月5日)

後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門天皇の寵妃や、後柏原天皇女御で後奈良天皇生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。・・室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭守護の武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。
                   (wikiより)

・・立川の国文学研究資料館に行ってみた。件の歌の出典を探したが、コンピュータで検索しなさいということ。そういわれてもね。とりあえず歌集「雪玉集」を探った。「花を見てかへる」というのは、どうしても見つからない。武蔵野と題された歌が二つ。

なほざりの袖だに露はふるさとを秋たちそめしむさしのの原
山の端はしらでかくれぬ月やただ心づからのむさしののはら

いろいろ旅もよくしたらしく、武蔵野にも実際来ているのだろう。武蔵野はただ広いという感慨の歌多く、たいてい場所を特定できないものだ。

・・もうひとつ「再昌」という歌集もみた。文亀三年(1503)

桃花曝錦
桃花春くれなゐの錦こそ柳さくらにたちもをくれね
玉河里雑
おしますやなかるゝ月日わつかなる光も陰も玉かはのさと

・・この「玉河」はどこの玉川か。

いろいろ拾い読みしてわかったが、あまりにローカルな土地は歌がない。で、青梅などもみつかりそうもない。

・・しかし、来ているはずだが。


「宗祇終焉記」(1502)の著者柴屋軒宗長が青梅勝沼を訪問したのは、永正六年(1509)の八月二日。
これは「東路のつと」として紀行を残す。

「八月二日に武蔵勝沼といふ所に至りぬ。三田弾正忠平氏宗、この所の領主たり。かねてしも白河の道々のこと申しかよはし侍りしかば、ここのやすらひ十五日に及べり。連歌たびたび、
霧は今朝分け入る八重の外山かな
この山家、後ろは甲斐の国の山、北は秩父などいふ山に続きて、まことの深山とはここをや申すべからん。この山深き心ばかりなるべし。同じ所に山寺あり。前は武蔵野也。杉本坊といふにして、
霧を吹く野風か花に朝曇り
同じく十五日に、氏宗同じく息政定、これかれ駒うち並べて、武蔵野の萩・薄の中を行き過ぎがてに、日暮し二日に分けはてて、長尾孫太郎顕方館、鉢形といふ所に着きぬ。政定に馬上ながら口ずさびに、
武蔵野の露の限りは分けも見つ秋の風をば白河の関 ・・」

・・杉本坊は塩船観音寺。その前の東側に開けた土地を武蔵野とみている。小高い丘陵は杣保と呼ばれ、江戸の資材を養っている。勝沼には二週間ほど滞在、埼玉の寄居にある鉢形まで馬で行く。道中の風光すべて武蔵野のものと認めているのがわかる。

「宗祇終焉記」でも鎌倉から武蔵野を分け入って上野(群馬高崎あたりか)越後へと向うに、武蔵野の経路は記述なしだが、やはり勝沼の三田氏の城を訪ねたと思える。

興味深いのは、武蔵野の風光の認識が、青梅の杣保からはじまっているということだ。

・・北条氏康「武蔵野紀行」(1546)でも、青梅の勝沼を訪れた記述がみられる。

この紀行、はなはだ胡散臭いものだが、勝沼訪問の行を引いてみる。
「比は八月上旬、朝霧深く分け入りて行くに山あり。いは山と云ふ。此の山の後は甲斐の山、北は秩父など申し侍る。夫より武蔵の国勝沼と云ふ所に着きぬ。斎藤加賀守安元、此の所の領主なり。常々道々の事申し遣はしければ、山海の珍物数を尽し饗応しける。
 此の所に二日逗留して、夫より武蔵野を狩り行くに、誠に行けども果のあらばこそ。萩芒女郎花の露に宿れる虫の声、あはれを催すばかりなり。
 武蔵野といづくをさして分けいらん行くも返るもはてしなければ
古の草のゆかりも懐かしければなり。是も紫の一本のゆゑなるべし。
 隔つなよわが世の中のひとなればしるもしらぬも草のひと本 」

・・藤沢から北に道をとり勝沼に入る前に「いは山」に至る。「此の山の後は甲斐の山」云々は「東路のつと」の描写そのまま、しかし「いは山」は高尾山のことと思われる。斎藤加賀守安元は勝沼の領主ではない。「武蔵野といづくをさして分けいらん・・」の歌も想像でつくれるような陳腐な歌だ。

それより、新拾遺集にある藤原行春の歌がおもしろい。

 分けゆけど花の千種のはてもなし秋を限の武蔵野の原

さらに源通光の武蔵野は、

武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風かすゑに吹くらむ(新古378)

 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 7月 2日(日)22時33分39秒
編集済
  ・・五月に訪れた甲斐大和。帰路塩山駅で電車待ちをしたプラットホ-ム。畳んだ自転車をどの客車に乗せるべきか。たまたま来た掃除廻りのおばさんに聞いてみた。客車の先頭か最後尾か。水を撒いて仕事しながら親切に応対。・・愛想のいい人で声の響きもなぜか気になった。おばさんもういいよ、ご親切にありがとう。いいえこちらこそ、お気をつけてお帰りを。・・で、電車に乗って思い当たったのだが、あの人は昔立川の職場にいたチヨちゃんという人だ。まちがいない。話をしている時はわからなかった。あ、なつかしい。向こうは憶えていたかな。たぶん気がつかなかったのは自分のほうか。しかし、なつかしい。・・こういうのって危ないんでしょうね、きっと。

・・千代の古道を追ってみる。


鳴滝(京都) 座標: 北緯35度11分30.1秒 東経135度38分11.8秒

・・地名の由来は、この地に小さな滝があり、ある時、その小滝が、ゴーゴーと凄い轟音をたてていたという故事による。村人たちが不思議がって、寺の和尚に相談したところ、和尚も不審に感じ、全員を、高台の寺に集合させた。すると、その夜、村は大洪水に襲われ、全壊してしまった。この出来事により、小滝は「鳴滝」と呼ばれ、村の方も「鳴滝の里」と呼ばれるようになった
                                  (wikiより)

鳴滝音戸山の山上にあった蓮華寺。

・・後、永らく荒廃した。江戸時代、1641年、江戸の豪商 樋口平太夫家次により、音戸山に再興されている。また、木食上人但称(但唱)により五智如来などの石仏群像が6年の歳月をかけ造立され、伽藍、堂宇も建立された。


嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒  定家

千代のふる道のコースだが、ひとつに松尾大社から広沢池、大沢池(嵯峨大覚寺)へ歩く道というのがある。二つの池は観月のコースだ。

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。・・本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇。

・・この五大明王ですが、画像をあれこれ眺めているうち、体調がおかしくなります。

wave.ap.teacup.com/shougyo999/420.html
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 6月30日(金)17時46分43秒
編集済
  千はやぶる神世もきかず龍田川から紅に水くゞるとは

二条の后の、春宮のみやす所と申ける時に、御屏風に、
たつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる

・・二条の后、春宮のみやす所の時ですから、貞観八年(866)から貞観十八年(876)の間のことでしょう。竜田川にもみぢ流れる屏風の場所は、おそらく、雲林院でのことと思われる。

業平のちはやぶるの前に「もみぢばの流てとまるみなとには紅深き浪や立らむ」素性法師の歌があり、さらにその前に「侘人のわきてたちよる木のもとはたのむ陰なく紅葉ちりけり」僧正遍昭の歌、「うりむゐんの木のかげに、たゝずみてよみける」の添書きとともにある。

・・命くれない、なんて演歌がありました。から紅は平安の異風ぶりでしょうか。

近代の色彩感覚では、vermilionというのが西欧経由で入ってきたと思われますが、鮮やかな朱色。卑弥呼の時代にあった丹沙は硫化水銀で似た色かもしれません。

* バーミリオン(Vermilion)の語源は、ラテン語のヴェルミクルム(Vermicul-um)だそうですので、・・※ヴェルミクルム=小虫(死んで塊になったものが赤色をしていた)


龍田越え

竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)は、奈良に至る「奈良街道」の一つ。 大阪と奈良を結ぶ街道の一つであり、斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」の一つである。 現在は国道25号が踏襲している。・・龍田(三郷町の龍田大社付近)を越えることから「竜田越」とよばれるようになった。
・・飛鳥時代に、難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備された。沿道にある大聖勝軍寺を含め、いずれも聖徳太子にゆかりのある地域と関わりがある。聖徳太子自身もこの街道を往復していたといわれる。
・・柏原から三郷にかけては、北側の山道越え(信貴山越と一部重なる)、大和川の北岸に沿うルート(いわゆる亀の瀬越)、対岸の南側を沿うルート(現在の国道25号)など、複数のルートがある。

柏原市内で、「亀の瀬」とよばれる地域を通るが、本街道としては現在に至るまで、難所として知られた。             wikiより


・・つつ井筒の恋で昔男が越えるのは、この竜田越ではなく十三峠であろう。

十三峠(じゅうさんとうげ)は、大阪府八尾市神立と奈良県生駒郡平群町福貴畑との境にある峠。標高462m。

大阪のヒルクライマーの聖地ともいえる峠。
かなりきつい登りが細かな緩急と九十九折れを繰り返しながら続く。


 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 6月23日(金)22時54分49秒
編集済
  ・・都議選があるな。都民ファの候補応援で小池百合子が地元に来ている。青梅マラソンのスターターと青梅観光を盛り上げてゆくというのでだいぶ受けていたようだ。自分も一票入れる。

・・今日は朝から自転車で多摩丘陵をヘめぐった。帰宅が夕方六時。多摩川沿いにマムシに注意!とあったが幸い蛇には会わなかった。温泉で壷押し湯というのをやったり、だいぶ体の節々が痛い。いまはバラバラ体が分解しそう。百草の稲荷塚というのがめずらしい八角墳と聞いて、簡単な位置地図を頭に入れて、ヒマがあったら訪ねてみたかった。・・数日前にネットで記憶した位置地図だけに訪問はあてにならない。予定外の算段だった。温泉のフロントで交番や道路網など尋ねると地図をだしてあれこれ説明を受けた。最近はどこでも新人が多くインフォの役が覚束ないのが多いがマニュアルあるらしく手をつくしてくれる。JR中央線は恐れ入った。駅員車掌が女子職員。それでも仕事はできる。
・・結局駅ちかの交番はビルの二階というのであきらめ最初に頭に入れた地図を頼りに稲荷塚をめざした。昔は古墳だったが今は神社か公園だと記憶して百草にあるという。ずっといくと運よく交番があって職員も在所のよう。日野の百草と思っていろいろ尋ねるがここは多摩市という。百草は多摩市にもあります。こちらの百草なら稲荷塚があります。運よくこの近くだった。頭の地図の寄せは正解。

・・このあたり和田古墳群が認知されているが、もっと昔は縄文の遺跡群もあったようだ。宅地開発などでおおかた原形をとどめぬが、この稲荷塚古墳はまだ墳丘の形はとどめている。都の調査で石室も確認されている。八角墳というのはたしからしい。


最近、多摩地区を走って気がついたこと。霞川にはカメラマニアがカワセミを撮ろうと粘っていたが、騒ぎすぎて出没はなかったか。瑞穂にある狭山ケ池は由緒が古い。水の色がモスグリーンで魚や水鳥も多い。午前中早めに訪れると、カメラマニアがものものしげに陣取っている。聞くとカワセミの飛翔を待っているのだという。つれずれに池の面を眺めていたら、一瞬、きれいな虹色の鳥が水面をかすめた。すぐ木陰に隠れたが、遠目にも虹色はよくみえた。・・あれがカワセミという。思ったより大きな鳥で、色彩は緑、青、オレンジとか虹色にみえる。

 武蔵野

・・総武線沿線は武蔵野からは外れている。武蔵野自体都からの外れの意味だった。下総上総には武蔵野コンプレックスがあっただろう。ミュージシャンの倉木マイは京都は第二の故郷と明言したのは、えらい。第一は秘して語らずだが、下総出身だ。近代の偏差値基準でいうと、感情移入のハイパーレベルを発揮したのは、同期では鮫島有美子、近々では倉木マイ。・・彼女らのずっと先輩は「更級日記」を綴った菅原孝標女だと認識している。上総の出だが。父の任期終了とともに京へ帰国するのが十三歳の時。渡月橋の十三詣りと同じ年ですね。都心を幻視する女子力では抜けているがローカルレベルの限界をどう超えるか、周囲はそうみるだろう。
 倉木マイは声がつぶれなければ、アジアの女王ayuにとってかわるのは時間の問題だとみる。ayuというのはハスキーボイス以外の記憶がないので申し訳ない、ホイスパーボイスにハスキーが+するのは、アジアの新風ではないか。嘘の充満してる台湾、中国では強烈なインパクトシンガーのボイスベリテが称讃されるはず。

 娘たちの仕事をよそに、大先輩の「更級日記」を解読してみたい。定家が秘かに筆写したという。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 6月18日(日)23時15分54秒
編集済
  まゐ様

・・忠臣蔵のお話は聞いているでしょう。江戸時代将軍は徳川綱吉の時でした。松の廊下の刃傷沙汰、赤穂浪士の討入り、切腹とか想像したくもない空気の時代がありました。品川の泉岳寺には大石蔵之助以下四十七士のお墓があります。・・泉岳寺の前の坂道を登って三田の方へ行くと海のほうへ見晴らしがきく亀塚公園に出ます。海がみえるといっても昔のことで今は渺茫とした埋め立て地でしょうか。月の岬と呼ばれて月見の名所はここのことかもしれません。亀塚公園には古墳と思しきものあり。

・・竹芝伝説もここです。菅原孝標女が上総から京に行く途中武蔵の国に入りました。この時すでに伝説でしたから古いお話でしょう。

・・火焼屋の衛士がこぼしています。

「などや苦しき目を見るらむ。わが國〔武藏をさす〕に七つ三つ作り居(す)ゑたる酒壺に、さしわたしたる直柄(ひたえ)の瓢(ひさご)の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見でかくてあるよ」と獨(ひとり)打ちつぶやきけるを

・・内裏の姫君が御簾こしにこのつぶやきを聴きとめたのが、はじまり。

東国というのは、なんて楽しい風が吹いているのだろう。想像するだけでわくわくです。

「七つ三つ作り居(す)ゑたる酒壺に、さしわたしたる直柄(ひたえ)の瓢(ひさご)の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西に・・」

「我ゐて往きて見せよ。さいふやうあり」


・・この都、平安京ではなく大和(奈良)の都と思います。平安京でも姫君は同じでしょう。

鳥影も木影もさして青簾
物ごしに采女の声や青簾
大輔も式部も見えて青簾

井月に青簾を詠んだ句があります。

大輔は伊勢大輔、永祚元年(989年)頃? - 康平3年(1060年)頃?

「いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな」

花みずきの一青窈にしても「うす紅色」が訴えていましたから、まゐ殿の「うす紅色」も私無しでヒットです。・・そして「から紅」の渡月橋へ。

ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは  業平

嵐山の紅葉もさることながら、斑鳩竜田川の紅葉もから紅そのものです。つつ井筒は十三七つの恋でしょうか。

・・簾がでてきたので、やはり業平の玉簾の歌が気になります。

吹く風にわが身をなさば玉すだれひま求めつつ入るべきものを (業平)
返し、
とりとめぬ風にはありとも玉すだれたが許さばかひま求むべき (高子)

平安朝もこのあたり洗練されすぎかと。青簾の青が効いています。

・・

三田の亀塚公園ですが、この亀塚、竹芝伝説の姫君のお墓ではないかといわれる。塚の頂上に亀山碑があり、これは上野国沼田城主土岐頼煕が寛永三年(1750)に建てたもの。「塚の頂上に酒壺があり、酒壺に出入りしていた亀が一夜の風雨で石になった」という伝説を伝えている。

・・この亀の石、今でも健在で少し降った亀塚稲荷神社に祀られてあるそうです。

亀塚公園のすぐ隣、済海寺という浄土宗のお寺があります。安政六年(1859)フランス総領事館が置かれましたから、戊辰戦争で指揮をとった河井継之助もここに尋ねているでしょう。


 沖の石

そういう名の椿があります。若狭の白比丘尼がもたらしたかもです。


わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
    人こそ知らね 乾く間もなし

●●●●●●●●
わがそでは●●●
しほひにみえぬ●
おきのいしの●●
ひとこそしらね●
かわくまもなし●
●●●●●●●●
●●●●●●●●

乾く間もなく秋くれぬ露の袖

●●●●●●●●
●●●●●●●●
かわくまもなく●
あきくれぬ●●●
つゆのそで●●●
●●●●●●●●
●●●●●●●●
●●●●●●●●


ところで、酒壷に亀。この亀、白い霊亀です。

渡月橋を渡って南から嵐山をまわりこむと、松尾の里ですね。芭蕉がこのあたりを散策しています。
松尾大社がみえて、ここは若い人はあまり訪ねないでしょう。芭蕉だから松尾大社に参拝というベタなことはやらんでしょう。井月は来てるはず。

京都府京都市西京区嵐山宮町3   北緯34度59分59.87秒 東経135度41分06.62秒

松尾大社は山吹と亀の井が魅力です。亀の井の水で酒を造るといつまでも腐敗しないそうです。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 6月14日(水)10時44分45秒
編集済
  ・・塩船観音寺に宗長が勝沼城三田氏を訪ねた歌碑があるという。確かめるために自転車を走らせた。ものの30分もかからない。躑躅の万華鏡はもう季節をすぎたが、手前にある吹上菖蒲園はいまが旬の盛りだ。自慢の梅林がウイルス被害でやられて観光客もぐっと減ったがこちらの北青梅はまだまだ未開発風。こころある人はこちらに廻る。すこし活気がある。

・・真言宗醍醐派別格本山というこの寺、はじめて訪ねた人はまず驚く。山間の凹地に構えて斜面一面に躑躅が植えられている。開花の頃は異様な曼荼羅世界になる。本尊は千手観音で開山はずっと古い。若狭の八百比丘尼が大化年間にやってきた。

何故若狭の八百比丘尼がこの武蔵の青梅に?若狭というのは裏日本の北陸ではないか?八百比丘尼というのがそもそも伝説的な旅の巫女。若狭の国の漁師の娘が人魚の肉を食べて不老不死の身になった。

・・八百比丘尼は白比丘尼とも、若狭小浜あたりの生まれという。

小浜田烏沖合いには、沖の石がある。

塩船観音寺  北緯35度48分15.4秒 東経139度16分52.4秒

・・この緯度線を追うと、

郡上大和・明建神社  北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒

・・福井敦賀原発(北緯35度45分02秒 東経136度01分11秒)の沖合いから若狭湾を蓋する形で京丹後最北端の経ケ岬(北緯35度46分45.47秒東経135度13分24.92秒)を抜ける。

八百比丘尼の故郷は、 福井県小浜市小浜男山  北緯35度29分29.6秒 東経135度44分18.3秒

熊野本宮大社 和歌山県田辺市本宮町本宮1100  北緯33度50分26.1秒 東経135度46分24.5秒


・・本居宣長の「古今伝授」批判が熾烈なので、すこし引いてみる。

「こゝに東下野守常縁と云ふものあり、歌人にはあらず。とるにたるほどの人にはあらねども、歌道に心をかけて、歌も少々よみ、歌学もすこししたるものにてありけるが、古今伝授と云ふことをつくりこしらへたり。そのつくりやうは、貫之より次第相伝と云ひて、元俊・俊成・定家と伝へ、それより次第に二条家につたはり、頓阿より後は千葉の家に伝へて、世に聞えず。さて自身まで相伝と云ふこと也。これみな大きなるつくりごとにて、あとかたもなきこと也。頓阿までも伝授と云ふことはさらになし。此こと別に弁ず。この常縁それを宗祇へ伝へたり。宗祇もあざむかれて、まことのことと思ひて、これを受けつたへたり。」

「そのころ西三条殿逍遥院実隆公、和漢の才ありて、ことに歌学に達し、詠歌もすぐれ玉へり。此人まことに歌道の中興にして、今に至るまで仰ぎ信ずることかはらず。此人専ら二条家の正風をたつると云ふことを名として、専らよみ玉へり。さればこれを二条家の歌道の中興と申す也。されどもこれを二条家の中興と云ふはあやまり也。此人は歌道の中興とこそ云ふべけれ。かの頓阿のころは、異風の流ありて、二条家おとろへしを、その異風をしりぞけて、二条家の風をおこしたればこそ、二条家の中興とはいへ、逍遥院殿のころは、すべて歌道おとろへて、異風も正風もなければ、何家と云ふことあるべからず。たゞ歌道の中興也。時の天子後柏原院も御名人也。さてその逍遥院殿を二条家の中興と云ふことは、そのいはれは、此人さしも学才ある人なりしかども、いかなることにや。かの古今伝授と云ふことをまことゝ思ひて、伝はり玉へり。かなしきこと也。常縁はいふにたらぬものなれば、たとひ伝授と云ふことをつくりたりたりとも、此逍遥院殿など云ふ時の名人、道の中興する人などのうけつけ玉はずば、世にひろく知りて伝はることはあるまじきに、此人さへあざむかれて、信仰し玉ひけるうへは、自余の人は信ずることはり也。かくの如く二条家の古今伝授と云ふことをうけつたへ玉ふゆへに、二条家中興とは云ふ也。されどその伝授と云ふもの、もとわけもなきつくりごとなれば、大いに誤り也。ただ歌道の中興也。」

 花を見てかへるといはぬ人はなし
  たもとを桃のにしきたちきて 逍遥院内府公
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2017年 6月 2日(金)13時46分31秒
編集済
  ・・嵐山、渡月橋、竹林、天龍寺。この辺はセットのパワースポット。天龍寺の寺号は、足利尊氏の弟直義が龍の夢をみたのを機縁に名付けられたという。が、これは嘘であろう。夢窓国師の案だと思われる。無門関や碧巌録にすこしだけ名をとどめる天龍禅師に由来をもらった。

・・馬祖道一-大梅法常-天竜-倶胝  という法嗣をみていたか。

大梅法常(752-839)


平安京に生きた深窓の三佳人。紫式部、和泉式部、清少納言。

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影  紫式部
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな  和泉式部
夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ  清少納言


最近は、わたしは、清少納言に魅かれるものがあります。

枕草子(一一段)

山は小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。鹿背山。ひはの山。かたさり山こそ、誰に所おきけるにかと、をかしけれ。五幡山。後瀬山。
笠取山。ひらの山。鳥籠の山は、わが名もらすなと、みかどのよませ給ひけん、いとをかし。
伊吹山。朝倉山、よそに見るらんいとをかしき。岩田山。大比禮山もをかし、臨時の祭の使などおもひ出でらるべし。手向山。三輪の山、いとをかし。音羽山。待兼山。玉坂山。耳無山。末の松山。葛城山。美濃の御山。柞山。位山。吉備の中山。嵐山。更級山。姨捨山。小鹽山。淺間山。かたため山。かへる山。妹背山。

・・小倉山を筆頭に、京近辺の山は見て知ってるでしょうけど、大方は他の歌詠みで想像した山々ではないでしょうか?「朝倉山、よそに見るらんいとをかしき」など、おもしろい。

朝倉山は福岡市にある歌枕、
「昔見し人をぞわれはよそに見し朝倉山の雲井はるかに」

この朝倉山は、岐阜の不破郡垂井町にもあるそうです。標高253m

・・

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを  実方

とこもふち淵も瀬ならぬ涙川袖の渡りはあらじとぞ思ふ  清少納言

・・この二人、似合いのカップルかと。


 

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