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一般的には「構造線」の意味は、「地質単元の境界(地学事典)」ですが地質単元のスケールについての定義はなく、研究者がいろいろなスケールの断層について勝手に命名しています。したがって、深さについてもいろいろなスケールがあるかもしれません。
しかし、漠然としたイメージでいえば、大規模なものならば、大陸(日本列島を含む)の地殻内の断層なら、それがずれ動いていた時代には、地下の震源領域(地震波を発生する領域)から地表へ連続していたと思います。その下限は高温の火山地帯では浅く、非火山地帯では深いですが、おおむね20km~15km程度です。
震源領域より深い領域(地震学的下部地殻)では、高温のため、断層のずれを受けた領域(断層帯あるいは剪断帯)では延性変形によりマイロナイトが造られます。ゆっくりとした延性変形では地震波は発生しません。
中央構造線沿いでは中生代白亜紀に当時の震源領域よりやや下で形成された、花崗岩類が延性変形を受けたマイロナイトが、その後の上昇と削剥により現在の地表に見られますので、白亜紀当時には少なくとも震源領域の下限より下まで断層(剪断帯)があったと考えられます。
日高山地西縁は、かつてはユーラシア(アムール)プレート側と、北アメリカ(オホーツク)プレート側の千島弧の衝突境界だったのですが、当時の下部地殻のはんれい岩やマントルのかんらん岩がマイロナイト化したものが、その後の上昇と削剥により地表に見られますので、当時の断層はマントル上端の深さにまで達していたと考えられます。
地質境界としての構造線については、ここで考えている下端の深さは、あくまでその当時の深さです。それを上昇削剥により現在の地表に露出している断層岩から推定したものです。
その後の再活動により、再び、深部に断層岩が形成されているかもしれませんが、それは今のところ、想像するしかありません。
早川の地質境界としての糸魚川-静岡構造線は、もし櫛形地塊が、北上し始めたフィリピン海プレート上の伊豆-小笠原島弧の北端にあって本州に衝突したのだとしたら、当時のプレート境界になりますから、その境界断層はマントルにまで達していたはずです。しかし櫛形と御坂については、本州側だったという考えもあります。
活断層の定義は「最近の時代に繰り返しずれ動いた断層で、将来に再びずれ動いて地震を発生する断層」です。「地震を発生する」に注目するなら、地下5km~15kmの震源域に達していることが定義に含まれていることになります。
つまり、地表における地震動(揺れ)によって地すべりなどの地盤変状が生じることがありますが、それによって地面に食い違いが生じても、それだけでは活断層とは呼べないということになります。
活断層である下円井断層や市之瀬断層は、西側の、櫛形山を含む現在の地形としての南アルプス側が東側の甲府盆地川に押しかぶさる逆断層ですね。構造探査で、その断層面は低角西傾斜ですが、早川の直下まで達しているかどうかまでは確かめられていません。
地質境界としての糸魚川-静岡構造線と、これらの活断層群は、10kmも離れていますから、「糸魚川-静岡構造線」という名前は混乱のもとになっていると私は思います。むしろ「甲府盆地西縁断層群」のほうが実態に合っていると思います。
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