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(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 7月13日(金)23時07分42秒
編集済
  ・・ふ~暑。体の新陳代謝をすすめる為に自転車で黒山三滝に向った。越生の山の中で以前梅林までいったさらに奥になる。三滝というのは、男滝・女滝・天狗滝とある。自転車は空気圧の調整だけ。朝6時半に出発し9時半には着いてしまった。体力がだいぶ落ちているので目標を三滝にしぼりすぐ帰宅する予定だった。小曽木街道でも飯能寄居線でも通勤ラッシュ帯にぶつかると自転車もつらい。何ヶ所か混んだ走りになったが、安全にクリアした。

・・体がバラバラに分解しそうで、帰宅してからは冷水がとても美味だ。酒はまずい。三滝は到達しただけで気が晴れたが、梅園神社にあるらしき遠山弘湖の句碑をさがした。暑いのでほんの記憶のかけら。梅林近くに神社があったので立寄ったようなもの。この手の神社、碑は忠魂愛国のようなものよくある。弘湖の句碑はみつからない。あとで町立図書館に訪ねてわかったが、もうすこし奥を探せば「玉垣の外面は梅のはやしかな」という碑がみられたはず。この図書館も通りがかりにたまたま目に入ったので立寄ったものだが、館長さんというかたが、越生の俳諧についてはお詳しい方で、弘湖のことだけでなく春秋庵のこと他耳新しい情報もうかがうことができた。資料も紹介してくださったが、何分にも暑くて自転車の走りの後では頭脳の働きはすすまない。帰宅してから本をとりよせ思考することにした。・・川村碩布の句碑はどこかにないか?尋ねたらあるという。地図で場所を教えてもらい、最後にこれを探したのがこの日一番の興趣になった。

・・滝を見ただけで帰宅というのはやめになり、郵ぱーく越生というスパによって温泉でリフレッシュ。このスパ越生でも山際の奥にあり自転車で訪ねるのがちょうどいい具合だ。車の混雑もない。あんまりよい道で記憶もないが。

 忘れないうちに黒山三滝の印象を。越生梅林の外れから越辺川に沿ったかは分らぬが川の上流の方へ山奥に入る。この越辺川(おっぺがわ)も興趣多し。次回に散策したい。・・顔振峠からくだって黒山に来たのは奥州に逃れた義経と、飯能戦争で敗れた渋沢平九郎。この平九郎は渋沢栄一の見立養子というが、黒山村自決は享年22歳。いやはや思いのほかの遭遇スポットに来た。

「水の声を聞く」最近の映画の舞台になったようだ。古来滝に打たれる修験道の聖地であったようで役小角の伝説もある。明治になって鉱泉が発見、旅館があって親しまれたが、ここも数年前から閉館されている。もったいない気もするが、観光行楽レジャーの質が変わってきている現今では仕方ないことか。多くの修験者のほか、野口雨情、田山花袋、西郷信綱の訪れがあったという。

尾張屋三平という越生の者が、江戸吉原にでて店を開き名を上げた。故郷の黒山三滝を褒め称え吉原から江戸市中の広まる名所となった。実際、男滝・女滝の前にある夫婦橋は夫婦和合の橋とあり、恋仲祈願の人たちが多く訪れたという。

滝廻りの散策は涼風この上なし。

・・温泉は、若者向けにキャンプ場も併設。プールもあり、この日は平日でお年寄りが多い。猛暑と自転車のライドで休憩できるならどこでもよい。そんな感じだ。

帰路、川村碩布の句碑を訪ねた。フロントで地図をみせ行き方を聞いた。とりあえず越生の駅までもどるのがよい。来た道は一本道かと思ったがいくつか岐路があり迷路にはまったか。要所で道を尋ねなんとか駅近まで。暑いので人通りなく、モータサイクルの店に立寄った。分解中のオートバイがあって声をかけると奥からご主人さんがあらわれた。こわそうな感じだが、句碑の場所は的確に教えてくれた。ありがとう。

で、いよいよ近くまで来た。たまたま外出してきた人にさらに句碑はないか尋ねた。すぐそこですよ。ポケモンがでるという。人が探してよく来るそうだ。あ、ポケモンGO!というやつですね。このゲームよく知らないけど、碩布の句碑までプログラムされてるなんて、驚き。こちらはまじめな句碑探し。
 
 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2018年 6月23日(土)23時33分48秒
  新門辰五郎
・・
新門辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾となる。
・・
武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824年)に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、弘化2年(1845年)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って入牢している。
・・
上野大慈院[?]別当・覚王院義観の仲介で一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、娘の芳は慶喜の妾となっている。元治元年(1864年)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行う。慶応3年(1867年)の大政奉還で江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を取り戻し[1]東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野寛永寺の寺の警護に当たっている。上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、駿府(現静岡市葵区)と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに駿府に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。明治になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875年)に没、享年75(または83)。


・・徳川慶喜の用心棒がこの侠客とは恐れ入りますね。
 

(無題)

 投稿者:山田  投稿日:2018年 6月23日(土)10時30分2秒
  尾張屋三平
 尾張屋三平こと新井宗秀は、文化12年(1815)、津久根村(現越生町大字津久根)に生まれた。25歳の時、家業を弟に譲り江戸に出た。北辰一刀流の祖千葉周作の道場で剣の腕を磨き、一方、遊侠無頼の徒とも交わり、新門辰五郎と義兄弟の契りを結んだとも伝えられている。
 新吉原の江戸町一丁目(現台東区千束)に「寒菊尾張」の暖簾をあげ、尾張屋三平を名乗った。慶応4年(1868)3月没。
 江戸市中に故郷の黒山三滝を宣伝し、大平山の役行者像建立にも尽力したといわれる。


・・海老原新甫とは、懇意であろう。
 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2018年 6月22日(金)22時00分9秒
  ・・梅林で名高い越生の町。以前この梅林と太田道真の草庵を訪ねたことがある。河越の城で心敬や宗祇と歌会をしてこちらの草庵にも訪ねている。隠居の庵だからけっこうな山奥だった。途中何度か探索をあきらめかかったが、宗祇心敬万里集九なんども来ているのに引き返す手はなかった。例によってスロープの多い道だった。・・この草庵への道と別にもっと山奥へ入ると越辺川の上流へゆく。黒山三滝という滝の名所があるという。

・・太田木甫という信州飯田の行脚俳人が明治のはじめにここを訪れている。木甫もほぼ無名で何でこんなところに?と思うばかりだが。
 

・・

 投稿者:かぐやまの花こ  投稿日:2018年 6月16日(土)23時29分48秒
  ・・鬼の、人の骨を取り集め侍りて人に作りなすやうに、信ずべき人のおろおろ語り侍りしかば、そのままにして、広野に出でて、骨をあみ連ねて造りて侍れば、人の姿には似侍りしかども、色も悪く、すべて心もなく侍りき。

声はあれども、絃管の声のごとし。げにも、人は心がありてこそは、声はとにもかくにも使はるれ。ただ声の出づべきあひだのことばかりしたれば、吹き損じたる笛のごとし。おほかたはこれほどに侍る。不思議なり。

・・幻術というもの、
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 5月26日(土)20時14分20秒
編集済
  ・・身近な川でいつも気になる霞川。きょうは霞川の水源のある根ケ布天寧寺にポタリング。霞川の水源さがしはこれまで二度やっている。東青梅からの成木街道をすこし進み、ここで霞川にぶつかる。川も分岐し、一方はそのまま西へ青梅丘陵の麓へもぐりこむ。もう一方は北へ向い昔三田氏の勝沼城のあった森の外れにある天寧寺へ。本殿の裏にある霞ケ池というのが、水源という。以前天寧寺を訪ねた時は、本殿の裏まで廻り込めず、庭の池と山辺の湧水をみて水源とみなした。・・きょうは思い立って真なる霞川水源を訪ねた。

・・かすみ川というありふれた名の川と思っていたが、この武蔵野のかすみ川は意外とメジャー。ネット検索でも一番にヒットする。青梅の霞丘陵に水源をもち加治丘陵を左に見ながら入間市にはいりやがて入間川に合流する。この合流地点にはカワセミが多くみられるという。川越にでた旅人がここにも氷川神社があるけれど所沢の中氷川に向わず直接奥多摩の奥氷川に向うとしたら、入間川沿いに歩き合流する霞川に沿って辿れば青梅の杣保に着く。ここから奥多摩へは一本道。・・霞川は古多摩川ともいう。およそ二万年前は多摩川の正統な流れだった。立川断層の活動があって青梅丘陵や武蔵野台地が隆起した。それで今の南東へ向う流れとなり霞川は多摩川から途切れてしまったという。

天寧寺は曹洞宗のお寺。青梅文晁と呼ばれた小林天渕はここに眠っている。以前訪れたこともあり寺の前までは容易に着いた。大層な阿吽像のある表門を抜けると池があって、はたと立ち止まる。がこれは霞ケ池ではない。運よくお寺の住職さんらしきが出歩いてくる。そこで霞川の水源を尋ねてみた。本堂の裏にあるというけれど、普通には見られない。見たいというと、僧堂を抜けて案内しましょう。これはこれはと、かすみの水源。
 

・・

 投稿者:かぐやまの花子  投稿日:2018年 5月22日(火)00時13分13秒
  ・・
狭井神社は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」という。本社の荒魂をお祭しており、延喜式神名帳に記されている古社。古より「華鎮社」と称された。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 5月21日(月)00時02分54秒
編集済
  ・・恋ヶ窪の図書館までポタリングに出た。宝雪庵可尊の論稿があるという。自転車で行くにはやや微妙な距離だ。先日出かけた立川の国文学研究資料館よりさらに足を伸ばして国立まで行きここから北へすすめ国分寺の西恋ヶ窪へと走る。この予定だったが拝島の駅まで来て玉川上水に出てふと思った。恋ヶ窪の駅から五日市街道はすぐ近く玉川上水もさほど離れていない。上水に沿って往けば恋ヶ窪の図書館にも着くはず。はじめての道を行くのはやはり不安だが人に尋ねたりいろいろ発見がある。

 五日市街道に沿ってゆくというのが最も賢明な選びだったかもしれない。上水に沿ってどこまでも進んだ。野火止の取水口もあって武蔵野らしい道がつづく。鷹の台に出たところで右折するのが正解だったがさらに進んだ。どうも行過ぎたようで人に尋ね右に迂回する形で東恋ヶ窪の名の有る付近に出た。この辺地理がわからない。で、なんとか恋ヶ窪の駅に出た。図書館は近い。

 ここにしか収蔵されてないという武蔵野文化女子大学紀要を探してやはり正確な情報なのですこし手間取ったが見つけてもらった。資料探しの旅というのも面白い。いろいろ発見があるものだ。ネットだけの情報というのは浅いか。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 5月18日(金)00時11分9秒
編集済
  野井-俳人、浅見氏、初め音好といい、紙葉軒と号し、のち逃水庵と号す。武蔵国入間郡中神村の人。逸淵の門人、明治九年三月二十二日没す。年六十三。

・・武蔵野の俳人野井を追った。入間の中神村というのは青梅の隣り金子の町。ここに入間市図書館の分館がある。・・霞川をサイクリングロードでどこまでも行く。八高線金子の駅から歩けば十分ほどだろう。このあたりも何度か来ている。ネットで探して近くに来たら人に尋ねる。これでほぼ完璧に到達できる。

野井について資料となる本はいくつかあった。「金子の人物誌」というのが一番の目玉。図書館では係の人がコンピュータで調べてくれる。とりあえず二冊。・・明治十一年に野井追悼句集「陽炎集」が出ている。この序文が小築春湖というのは、橘田春湖のことだろう。略伝があり、同門後学、三森三木雄とあるのは春秋庵を継いだ三森幹雄であるから、野井も白雄の春秋庵の流れとわかる。

・・地元の門弟が野井の句碑を建てた。明治四十一年。中神の村社三輪神社境内という。金子の図書館まで来たのでこの三輪神社も訪ねてみることにした。図書館に限らないが最近係りの者がこういう古い神社の場所など知らないことがおおい。それでもネットで調べてたいていはよい案内ができる。さほど近くは無いが霞川沿いの茶畑の中にある。ずっといって一二度道を尋ねた。土地の古老らしきはさすがよく知っている。あそこに見える鎮守の森だよ。雲竜図を見にいくのでしょう?絵があるのですか?何か古い絵があるらしい。
 

(無題)

 投稿者:秋魚  投稿日:2018年 5月16日(水)20時48分24秒
編集済
  闇の夜や巣をまとはして啼千鳥

県立博物館からの帰路、半ば執念で差出の磯に寄った。今度は大嶽神社の社主に尋ねてこの丘の上ではない。亀甲橋の袂にいってみなさい。坂を下りて橋の入口に廻ると、たしかに差出の磯の碑がある。ここが景勝の地だとはどうも落ち着かない。誰に聞いても最初にここに訪ねなさいとはいわない。芭蕉の句碑はすこし奥まったところに見えた。

*山梨市八景 差出の磯とちどり

 平安時代の勅撰和歌集『古今集』の賀の部に「塩の山差出(さしで)の磯に住む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く」(詠み人知らず、塩の山に近い差出の磯に棲息するちどりが、大君の御代が八千年も長く長く続くように鳴いている)の一首があるが、天下の名勝・差出の磯は奈良・平安時代の昔から文人墨客が訪れ、その感懐を詩歌や絵画に残している。

 いま亀甲橋から根津橋までの1.3キロがちどりの保護区になっているが、昭和51年「やまなし野鳥の会」の会員によって、コチドリ、イカルチドリ、シロチドリ、イソシギなどの棲息が確認され、これらを総称してちどりとしている。そして昭和55年「市の鳥」に指定された。

・・こういう解説文があったようだ。

芭蕉千鳥の句は、蝶夢木因「富士美行脚」に

「 天明8年(1788年)3月19日、差出の磯に翁塚建立のため俳諧興行。

 十九日、落葉庵をいとまこふに、かのさし出の磯に翁の石碑を建んとて供養の俳諧に、各無是非ことに滞留して、一座の会を催す。

   石文はこゝをせにせよ木瓜躑躅

と和尚の一句につゞけて、歌仙行。 」

とあり、寛政2年(1790年)10月、月朶園里塘・水石樓魚君建立。東江閑人筆。

・・蝶夢の計らいがあったようだ。

(猿蓑)

闇の夜や巣をまどはしてなく鵆  翁

越より飛騨へ行とて、籠のわたりのあやうきところどころ、
道もなき山路にさまよひて

鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ  凡兆

「夕さればさほの川原の川霧に友まどはせる千鳥なくなり」紀友則(拾遺集四)

・・

時雨ともならで夜更けし千鳥かな    1
釣棚は焚にも足らずなく鵆       2
酒さめて千鳥のまこときく夜かな    3
ぬけ星は石ともなるか鳴く千鳥     4
粥烹や手に取るやうに鳴く千鳥     5
夜も霞む流れの音や千鳥鳴く      6
矢がらさへ焚て鵆をきく夜かな     7
なく鵆帆にくるまつて寝夜哉      8
磯に群れ洲にむれ明けの千鳥かな    9
 

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